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戦争体験を語る


大中香代様(西遠高等女学校 第37回卒業)

大中香代(旧姓 河合)さんは、昭和6年5月のお生まれ。
市内尾張町に育ち、元城小学校を経て、昭和18年、静岡県西遠高等女学校に入学されました。女学生時代に体験された戦争の思い出を、校長の大庭が伺いました。

懐かしい道を通って

大庭:今日はお暑い中、東京から母校にお越しくださり、ありがとうございます。
6月の「東京そでし会」(首都圏在住の卒業生による同窓会組織)では、大中さんがご自身の戦争体験をお話になられました。今年は戦後70年、このお話はぜひ改めてお聞かせ願いたいと思い、ご来校をお願いしてしまいました。

大中:何をどうしゃべっていいかわかりませんから、聞いて下さったら、何でも話しますね。今も(こちらに来る)タクシーは六間道路を通ったんですが、女学生のころ、うち(尾張町)のところから北に来て、ちょうど日本楽器、そこで六間道路に出て、真っ直ぐに東に来て西遠でした。当時「通学隊」と言って、地区の西遠の生徒が集まって登校していたんです。だから、今、懐かしい道を通ってまいりました。
大庭:今、小学生が行っている「集団登校」と同じですか?
大中:そうです。私たち、2列で1グループ10人前後で歩いて通っていました。他にも、広沢など坂の上の方から来る隊もありました。大東亜戦争が始まったのが、私が小学校の4年生の時だったんです。4年生の12月8日に始まりましたでしょ、戦争が始まったと言っても何が何だか分からない。朝校庭に集められて、「戦争が始まったんだって」「ああそうなの」、と言ったぐらいでした。みんなまだ戦争が何か分からない。ただ、大変なことになったんだなあということは感じました。
そして、18年4月に西遠に入学しました。

富郎先生の思い出

大庭:西遠高等女学校ですね?
大中:はい。姉がその時4年生にいたんですね。笠井から来てらっしゃる原野さんが、今で言う生徒会の会長で、うちの姉の河合ひさが副会長だったんですよ。
姉は当時の校長の岡本富郎先生にすごくかわいがられたらしいんですよ。
私が入学した時、富郎先生に「お前、ひさの妹だってな」と言われて、また(比べられて)嫌だなあと思ったんですよね(笑)。
大庭:富郎先生とはどんな思い出がありますか?
大中:あの頃、第2校庭に「たこつぼ」って言ってね、防空壕じゃあ間に合わないからって「タコつぼ」を掘って、3人入れるようにって、下級生は穴をみんなで掘ったんですよ。富郎校長先生も一緒に掘ったの。そんな仕事をしたのは、私たちの学年だけなんですよ。だから、それから先生がぐっと身近になっちゃってね。だから、戦後も同窓会なんかがあると、何かというとね「先生、あの時、たこつぼ掘ったもんねー」とか言っちゃって、私たちの学年はみんな遠慮なくいろんなこと言うんですよ、それで私たちの学年がいると、「こいつらだよ、おれのこと笑ったやつは」って先生がまずおっしゃる。嬉しそうに笑っておられました。一緒に穴掘ったりした楽しさが残っているから。「先生、もっと頑張って掘って」なんて遠慮なく言ってね。それだけ、先生とすごく近くで過ごしたんです。
その頃、学校工場っていうのが西遠にできましてね、第2校庭に面した新校舎の中を全部ぶち抜きにして、そこで、今で言うビニールの袋を作るのを1年上の人たちがやってました。
大庭:西遠で?
大中:そう、それにお米を入れてお水を入れて炊いて、密封状態にして戦地に送る、その袋を作ってるんだっていう話でした。今で言うと、物は違うんでしょうけど、ビニールみたいな、ああいうものですね。そこでロスしたものをよく校長先生が私たちのとこへ持ってきてね、その頃みんな下駄を履いても良かったんですよ、履物なんてなかったですからね。それで、「下駄の鼻緒が切れたやつは、これを代わりにしろ」っておっしゃってね。確かに丈夫なものでしたねえ。
大庭:学校の中にも工場があって、先輩たちが働いていらしたとは、知りませんでした。
大中:1つ上の先輩でした。もっと上の3年生4年生は動員学徒として市内の工場に行っていましたから。鈴木織機とか、河合楽器、それからどこでしたっけ、常盤かなんかに小さなお菓子の会社があって、そこにも行ってたわね。私たち1年生はそういう工場での仕事はなかったですけどね。私たちが作業したというのは、防空壕を掘ったり。
大庭:畑も作っていたと…
大中:そうそう、それは「農業の時間」って言ったんです。
大庭:そこも耕して。
大中:そうですそうです。しまいには、第3校庭って言ってね、修身堂の横。今の静思堂ね。その横も全部畑にしちゃって。最初の年は、ピーナッツかなんかが取れたらしいんです。先生がそれを物置に置いといたら、一夜のうちに盗まれちゃって。農業の先生、内山先生っていったおじいさんの先生だったんですけど、いやにしょぼんとしちゃって、「内山先生どうしちゃったのかしら」「南京豆を盗られちゃったんだって」なんて、そういうことがありました。
大庭:昭和19年の暮れには大きな地震もあったということですが…。
大中:昭和19年12月7日ね。ちょうど、第2校庭に生徒が集められて、校長先生がお話なさってたんです。「明日12月8日だから、明日から戦争が厳しくなるから、緊張しなさい」っていう話の最中に地震が来てね。校長先生が台ごとひっくり返っちゃったんです。それ見て、校長先生が台からおっこったのがおかしくって、自分たちが立ってられないのに、みんな転がってげらげら笑ってたんですよ。笑って、しばらくしてひょっと見たら、科学館っていう建物が校庭の東にあってね、階段教室がある建物で、それと講堂(※木造の旧講堂)がね、ゆっさゆっさゆっさゆっさ揺れてるのよ。それでね、初めて地震なんだと分かったのよ。
それで、10年たってからかな、東京で初めての同窓会の大きいのをしたときに、富郎先生いらしてその時の話をして、「先生、台から落っこって、みんな笑っちゃったのよね。なんで笑ったかわかんないけど、あとから地震だって気がついたのよね」って言ったら、先生「ホントにお前たち悪い奴らだ」って言って(笑)。

最初の恐怖

大庭:「東京そでし」の時には、六間道路を通学中に機銃掃射に遭われたというお話をされましたが、それはいつ頃だったんでしょう。

松屋山 萬福寺(浜松市中区)

大中:昭和20年の2月ですね。それが、小型機で襲われた初めての体験です。あの時には、みんなで「通学隊」として朝並んで学校に向かって歩いていったら、富郎先生が学校の方から自転車で走って来られて、「帰れー、帰れー」って言ってらっしゃるの。馬込川の近辺だったと思いますね。「早く帰れー、うちに帰れー」って。何を言ってるの?なんで帰らなくちゃいけないの?と思った。
確かに、小型機がどうの、ってラジオでは言ってたんですけどね、私たちは小型機が何なのか全然知識がないからね。富郎先生が「今日はいいから帰れー」って言うから、「校長先生が帰れっていうのだから帰っていいんじゃない」って、それでみんな後ろ向いて、歩き始めて。
最初は分かんないから普通に歩いてたわけですよね、他にもそういうグループがいくつかあったと思います。
萬福寺の辺りまで来た時に、飛行機がブンブン飛んでるんです。ところが、飛行機が飛んでるのは飛行場がある浜松では不自然ではない、ただ、いつもに比べてずいぶんカッコいい飛行機よね、となんて言ってたら…
大庭:日本の飛行機だと思ったわけですよね?
大中:そうそう、そしたら急に、ちょうど牛車がね、たぶん西向いて進んでいたと思うんですけど、その牛がね、突然ゴローンと倒れたんですよ。牛に命中したんですね。
大庭:機銃掃射ですね?
大中:そうそう、それでびっくりしちゃって、それで萬福寺が見えたからみんな走ったんです。私はもう一人の子と隊の一番後ろだったから、皆さん防空壕に入ったりしたけど、私たち二人は間に合わなくて、防空壕の手前にヤツデの木があったんだけど、二人でヤツデの木にしがみついたの。少しでも隠れるのがいいと思って。そしたら、もうぴゅんぴゅんぴゅんと砂が飛ぶんですよ、弾が落ちると。それは1メートル50ぐらいの間隔でした。で、ひょっと見たら、もう縦横十文字に砂が飛ぶんですよ。もう怖いなんてもんじゃなかったですよ。
その時は、日本楽器の本社が空襲されましたの。小型機に。
大庭:日本楽器というと、中沢の?
大中:はい、そうです。萬福寺から見ると、ちょうど萬福寺の隣みたいなところに日本楽器が見えるんですよね。そこに小型の爆弾が落ちたりなんかして。もうホントに、土が上がっていくのが見えるんですよね。そのうち、一度静かになってね、それで慌てて、私と友達の二人は、お寺の本堂の縁の下に入ったんですよね。防空壕は入るに入れなかったから、縁の下へ。ヤツデの葉よりは少しはいいと思って。それでも攻撃は1時間ぐらい続きましたかしら。もっと短かったかもしれないけど、私たちにしたら、1時間ぐらいの重みがありましたよね。
大庭:朝何時ごろのことだったんでしょう?
大中:その頃、学校は8時半に始まってたんで、みんなそれに間に合うように歩いてくから、攻撃は9時前後でしょうね。機銃掃射を受けながら、操縦席の、ゴーグルをかけたアメリカ兵が見えてね。後で聞いたら、割と若い、20歳前後だって皆が言ってましたけどね、「あの顔は笑ってたよ」って。
萬福寺から帰ろうとした時に、目の前に大きな金色の玉がグワンと落ちたの。みんな、ぎゃあって逃げたけど、何も音がしないの。そしたらね、ハーモニカの箱の端に金の細長いのが飾りで貼ってあるんですが、その玉だったの。
大庭:それが日楽の工場から飛んできたんですか?
大中:そうなんです、そうっとみんな近づいたら、「紙だ!」って分かってね。「紙だ」って言った時は、2人ぐらい腰を抜かしちゃったわね。

六間道路

大中:西遠は、ちょうど六間道路の東の一番終わりなんですよ。あそこから馬込川までの間がすごい爆撃。
大庭:今は六間道路はもっと東に延びていますが、戦時中は西遠までが六間道路だったんですか?
大中:学校に曲がる角までが六間道路で、そこから先はまだ出来ていなかったです。昭和20年の3月か4月に、六間道路の両側が爆弾でやられましたね。その日は、私たち、爆撃されたその先へ先へと逃げたんですよ。防空壕に入っていると、「外に出ると危ないから、ここにいなさい」って防空壕の大人に引き留められたけれど、うちに帰りたいから、ってそこを出て、次の防空壕まで行って。道々どこの防空壕に避難するかはあらかじめ決めてあったの。必死で次の防空壕へ行ってね。次の防空壕へ行くと、前の防空壕が直撃を受けて。やっと家まで辿り着いたら爆撃が終わったのよね。
それでも次の日に学校へ行かなきゃいけないわけでしょ、うちの父が「あの辺が大変だから気をつけて行け」って言って。実際、六間道路に出たら、もう土の山です、両側。六間道路が全部爆弾で掘り返されていたの。防空壕のあったあたりも爆弾で掘り返されて。あ、ここはあのおばちゃんのいた所、っていう感じで。
大庭:全部、爆撃で?
大中:その頃はまだ焼夷弾じゃなくて、爆弾でしたからね、もうアスファルトが何にもないんです。こんなに変わっちゃたのかしらって。この爆撃で3名ぐらい知ってる方が亡くなったの、西遠の帰りに入れてくれた防空壕の人たち。
大庭:では、引き留められたけれど、そこを出て大中さんたちは助かったと。
大中:そうなんですよ。あの時怖いからうちへ帰ろう帰ろうって言ったけど、「あれは家が呼んだんだろうね」なんて後で言ってました。お世話になったおうちが全部やられて。一軒のうちなんか、爆弾で全部やられて、ふっと見たら2階の手前側が全部なくなってて。そこの押し入れの中にお布団がきれいに畳まれて入ってた光景がとても印象的でした。
大庭:六間道路沿いは全部やられちゃったんですか?
大中:あの時はまだ家数が少なかったですね。田んぼみたいなのがあって。残ってた家が直撃受けたり、道路に直径3メートル5メートルの穴がいっぱいあいてね。考えると、そこのおじちゃんにもお世話になったわね、ここのおばちゃんにもお世話になったわね、っていう人がたくさん出てきましたけどね。「私たち何にもすることができなかったわね」って、その言葉しかなかったですね。

6月の浜松大空襲

大庭:そして、6月の浜松大空襲があったんですね。

1945年 空襲後の浜松
(WIKIMEDIA, Public domain)

大中:6月17日の夜11時半過ぎでしたね。
兄の袋に腕時計が入っていて、それが11時20分で焼き切れているんです。空襲警報も何もなく、いきなり家の周りが真っ赤な火の海。アメリカ軍が焼夷弾を初めて使った町が、浜松と津と鹿児島とあと1つだと言われていますよね。
終戦後に松菱百貨店で浜松空襲の写真展があった時は、展示で町の周りから焼夷弾を落としたのが分かって。
周りから家が焼けたからみんな町の中心部に向かって逃げて、中心には焼け焦げた人がいっぱいいました。私も一歩違えばそういう人になってました。
大庭:尾張町といったら、浜松の真ん中。大中さんのご家族はどういうふうに逃げられたんですか?
大中:ちょうど寝てたら、爆音が聞こえて。聞こえたと思ったら、照明弾が落っこちてきて。警報も何にも鳴らないで、いきなりババババって明るくなって、「え?」って思ったら、もう真っ赤だったんですよ、周りが。家族で高台の坂の上に逃げ上がったんですよ。その時、後ろから来たおじさんがね、ふっと見たら、火力でグイッと吸い上げられて、ばたんと倒れてね。帰りに見た時には、まっ黒焦げになっていました。今でも、6月17日の夜になると寝られないですね。
坂を登りきった時に、左に行こうと思ったら燃えてる、右も燃えてる。父は何しろ「こっちの方が火の回りが薄いから」って右に行ったんですけど、やっぱり燃えてて、そこに井戸を見つけたの、飾り井戸。そこはね、昔の棒屋の社長さんのお屋敷だったらしいけど、爆弾でお屋敷は壊れてたの。もう逃げるとこがないから、とにかくここへ入ろうってことになって、一本、井戸に木を入れたと思うんですよ。そして、私が最初に入って、水面ぎりぎりだったんですよ、そこに折り重なって、次々に突っ張って。
大庭:縦に折り重なって井戸に?
大中:人間、命助けようと思ったら何でもやるのね。とにかく突っ張り合ってました。
大庭:その井戸には大中さんとどなたが入ったんですか?
大中:私と、すぐ上の姉、母、父、それから姉がもう一人、そのうえに兄。兄は長男なんですけど、その兄が井戸に入る直前に背中に焼夷弾を受けちゃったんですよ。やけどじゃなくて打撲だったんですね。それで負傷した兄を一番最後にしようって言って。近所のおじさんも一人入って。
大庭:大中さんが一番下?
大中:そうそう、とにかく折り重なってますからね、それで、とにかく周りに何回も焼夷弾がおっこったんですよね。焼夷弾の落ちる音が何回も何回もして、井戸の上を見上げると炎がすごい。夜じゅう炎があがって。どのくらい時間がたったか、後で勘定したら5時間ぐらいたってましたかね。空が青くなってきたの。それで、「空が青くなったわよ」って言ったら、「もう爆音も聞こえないから大丈夫だろう」って、一番上にいた姉とよそのおじさんとが這い出てくれたの。それで、近所の人を呼んできてくれたの。それで、一人ずつ、その辺にある壊れてた電線やなんかで吊り上げてくれたの。で、兄が一番重傷でしたからね、一番最後にして、一人よそのおじさんが入ってくれて、一緒に兄を上げたんですけどね。母は井戸水に半分浸かっていたから凍えちゃって意識を失って。その辺焼けてますからね、地面も熱いんですよ。そこに母をじかに寝かせて、どっかの人がお布団持ってきてくれて、その上からお布団かぶせて。2時間ぐらいで目が覚めましたね。
私は井戸から出た途端に、ぐるっとまわりを見たんですよ。そしたら、このくらいの太さ(直径20センチぐらい)の、1メートル50センチぐらいある焼夷弾が14発おっこってたの、思わず私、勘定したんですよ。そのうちの1発でも井戸に落ちてたら、私たちいないわよねっていうような感じだったんですね。
母が気がついて、ちゃんとものが言えるようになってから、じゃあ、ぼちぼち帰ろうか、うちに戻ってみようって、その坂を下りていきました。うちは角から3軒目なんですよ、でも、焼けて何もなくて気づかず通り越しちゃって、こんなとこじゃないから戻ってみようって言って、戻れ戻れって戻って。焼けちゃって何にもなくなると分からなくなるんですよね。「あ、ここだ」とやっと家の位置を見つけて。一番奥に防空壕、そこにいろいろ埋めたんですよね。そこまで行こうって言って、燃えかすがまだ熱いのにね、かろうじてそこまで行こうとしたら、途中に足に引っ掛かるものがある。「なんか引っかかるよ」って言ったら、母が「じゃあ、引っ張ってごらん」って言うので、ずっと引っ張ったら、布(きれ)なんですよ。ところどころ破けてるけど、布だ、と言ったら、みんなびっくりしてね。そこで、水道で布をジャージャー洗ったら、なんと、前の晩に「これでモンペもう一枚作りなさい」って母がくれた絣(かすり)だったんです。その頃の絣は色が出るから、色を出しちゃう為にたらいに水を張ってつけておいたの。そしたら、たらいの水から出ているところだけ焼けちゃったわけですよ。たらいも焼けちゃって。中の布だけ残ってたの。「こんなだったら、みんな浸けとけばよかったね」って。ホントに、あれは奇跡でした、布をそこで洗って、ぽこぽこ穴のあいたところはつぎ足して、あとでモンペを作りました。
あの夜の空襲では、周りの家が炎の勢いで震えているんですよ。向こうの方ではば-っと家が崩れて。その中、ホントにタッチの差で逃げて、井戸の中に5時間。出た時に姉の持っていた時計で6時ぐらいでした。その時に、言ってみれば生まれ変わったみたいなものですよね。

空襲で家を失って

大庭:尾張町の家がなくなってしまった後は、どうされたのですか?

大中:兄が息もできない状態だったので、近所の人が即席で担架を作ってくれて。
今の中沢に兄の友達のうちがあって、そこならうちが残っているかもしれない、と連れてった。そこにお兄さんが一人残っていらして、「うちは誰もいないからって家へ入んなさい」って言ってくださって、それでしばらくそこを借りてね。
大庭:では、そこでお兄様は養生して?
大中:はい。でも、その兄も、8月10日に入隊しろって、召集令状が来たんですよ。近所のお医者さんに相談したら、そのくらいの怪我では兵役免除してくれないから、行くだけ行ってごらんって。それで兄は埼玉の隊に入ったんですよね。ホントに生きて帰っては来られないねって言いながら行ったんですけど、そしたら8月15日に終戦になって、5日間の軍隊生活してきたんです。
うちの兄は割に筆の立つ人だったんで、入隊したその時に、「この中で字の書ける奴いるか」って言われて、ハイって手を挙げたんですって。おかげさまで、部隊長のすぐ横で、手紙など書く仕事にあたって。だから全然重労働もなくって、帰って来たんですけどね。でも、結局、無理がもとで結核になって、20年ぐらい天竜荘とうちと行ったり来たりでした。でもまあまあ元気になってね。もうホントに戦争はいろんなことを経験させてくれました。
大庭:大中さんご自身は笠井の方に行かれたとか?
大中:私は、西遠の分教場が笠井にあるから、笠井の親戚のところに行って。西遠は、笠井とか、篠原とか、高塚とか、方々に分かれて分教場を作って、そこに先生がいらして授業をしたんです。
大庭:笠井へは空襲はなかったんですか?
大中:そうですね、あの辺は「浜松が焼ける時はすごく空が真っ赤になったよ」なんてことを言ってたくらいでしたからね。でも、7月28日だったと思いますが、艦砲射撃の時はもう怖かったです。笠井から南の方を見ると、火の柱みたいなのがしゅーっと上がるんです。上に行って、通ってる時は見えないんですけどね。それがしゅーっと落ちてくると、もう笠井のあたりでもグワーッと揺れたぐらいですからね。
いとこは舞阪に住んでいたんですが、その時のことを「浜にいたらアメリカの軍艦が6隻はいたのが見えたよ」って言ってました。
大庭:お姉さんは4年生でしたが、動員学徒で鈴木織機に行かれていたとか。4月と5月の爆撃の時は?
大中:工場が二俣に引っ越したんですよ、だから、二俣に行っていました。森の中に工場作って、そこへみんな行ってたんだと思います。
大庭:二俣まで毎日通ったんですか?
大中:いえいえ、みんな寮生になったんだと思います。宿舎を決めて。
大庭:お姉さんは泊まり込みで?
大中:はい。そうです。
大庭:そこは爆撃に遭わなかった?
大中:そこまでは爆撃はなかったですね。でも、姉がなんかで病気になったのかな、他の人より早く帰ってきたことがあった。それで校長先生から学校の方に手伝いに来いって言われたとか言って、学校の事務に手伝いに来てたような覚えがあります。

亡くなった人たち

大庭:ここで、高校演劇部の生徒たちにも加わってもらいましょう。
彼女たちは、今度の終戦の日に、アクトシティ浜松大ホールで行われる、浜松市主催の浜松市戦没者追悼平和記念式で、「夕空」という劇を上演します。
上演に向けて、先輩である大中さんにぜひ質問したいということです。よろしくお願いします。

生徒:よろしくお願いします。
大中:大中です、よろしくお願いします。
大庭:では、どんな劇かを紹介してください。
生徒:1995年の女学生が、郷土研究部で、神社の話を聞きに行った時に、戦争で亡くなった先輩の霊に出会って…というお話の劇です。
大庭:では、部員の皆さんから質問はありませんか?
岡本:役作りとかでもいいですよ。
生徒:はい。戦争で友達とか近所の人、先輩などが亡くなったと思いますが…。
大庭:たくさんの方を亡くされたんですよね。小学校のお友だちも。
大中:私の小学校の友達の中には、アメリカの飛行機が各地への爆撃の帰りに浜松に落とした、たったその一発で一家全滅になった方もいらっしゃいました。「なんか肴町のあのへんに一発だけ落ちたみたいよ」って、空襲がなくなってから見に行ったんですよ。通りは何ともなかった。「このへんに落ちたけど、どこだったか知ってる?」って、そしたら、「たぶん中村さんちのとこだと思うよ」って言うので、みんなでそっちに行ったんです。表通りはきれいなのに、一本入ったら、もう、大きな、直径5メートルぐらいの穴になってる。聞いたら、「みんな木端微塵で、肉片でさえなかなか見つからなかったみたいよ」ってご近所の方が言ってらしたの。
大庭:それが小学校の時のお友達?
大中:そうです、そうです。あそこのうちはたった一発で一家皆亡くなって気の毒よね、って話しました。元城小学校の同級生は360人いたんですよ、60人の6組ですから。終戦後5、6年後の時でしたかしらね、一度集まろうじゃないかと集められた時にはもう250名ぐらいしかいませんでした。遠くに引っ越した方やら、一家全滅の方やら。うちの町は、小さい町でしたけど、一家皆亡くなった方とか10軒ぐらいありましたね。うちは父が町内会長だったし、10年ぐらい続けて民生委員もやっていたので、毎年6月18日になると、町の人たちだけでも、って集まって近所のお寺さんに来てもらって供養したんです。空襲は一番怖かったです。
大庭:そして、西遠では動員学徒の方々も。
大中:そうです。西遠の3、4年生が工場に出てました。鈴木織機とか河合楽器とか。それで、昭和20年の4月と5月に亡くなられたんですよね。
大庭:動員学徒以外にも、亡くなった生徒さんがいたそうですが。
大中:空襲で亡くなった方も何人かいたの。私ね、一週間ぐらい前に何かで仲良くなった黒柳さんという方がいたの。空襲で近い人は急いで帰りなさいっていう時に、黒柳さんと門で別れる時に、いやに「またね、河合さん、またね」って。「あなたあの人と親しかったの?」って友達にいぶかしがられるほどだったの。その黒柳さんが、おうちが空襲で、左足が飛んじゃって、結局出血多量で亡くなって。他の人が、「あの日あなたに別れを告げたあの人よね。あの時だけどうして急に『またね』って何回も言ったんだろうね」って。とてもきれいな人で小柄な方でした。
大庭:ご自身、空襲の中を必死で学校から帰ったこともあった。
大中:防空壕を出て逃げると、前の防空壕が爆撃を受けて。家に帰って思い出すたびにぞっとして、その日は寝られないってことが多かったですね。あのおじちゃんも、あのおばちゃんも亡くなったんだわって。私の友達で一人ね、「あなたにあの時そう言われたけど、あの時は恐ろしさで思い出すこともできなかった」って。「しばらくしてから、ああ、そうだ、あのおじさんだわ、あのおばさんだわ…ってやっと思い出した」って。そのくらい人間の恐怖はすごいもんだと思いました。そんな恐怖には、できるだけ遭わない方がいいって思いますよ。
生徒:お友だちやお知り合いなどが亡くなり、ご自分が生き残った時って、悲しさとかいろいろどんな気持ちになるんでしょうか?
大中:私の場合は、悲しさは一カ月ほどたってから。それまでは自分の怖さが体に残ってて、もう抜けきらないの。やっと怖さが抜けて、ああそうだわ、あそこのおばちゃんが亡くなったんだわ、お世話になった…とか、あの子あんなに別れを惜しんでた、あれが最期だったんだわ…って、自分が落ち着いて考えるようになったのは、本当に1ヶ月ぐらいたってから。それまでは恐怖の方が強くって。そのくらい怖い。信じられないでしょうけどね。
大庭:亡くなった方を悼んで悲しみに暮れたりという余裕がなかったということでしょうか?
大中:戦争だったから。思い出して涙するっていうのは、世の中が落ち着いてからよね。それまででは、自分の身を守るのに精いっぱいっていう感じになっちゃってね。人が爆弾を落として、人から怖さを与えられた状態でしょ? わが身に戻ってこないのね。
私たちは小さかったから自然とこういう戦争の波に乗っちゃったけど、後にいろいろ本を読んだりしても、その頃絶対に戦争反対って言った人は容赦なく刑務所に入れられて、ものも言えない、文章も書けない状態にされた人も多かったと言いますよね。
岡本:うちの学校誌「友情」も、もとは「フレンドシップ」という名前だったけれど、戦争が始まる頃に英語の名前は使っちゃいけないっていうことになり、「友情」になったんですよね。
大中:私たちの頃はもう「友情」でしたね。でも、入学したころは発行が途絶えちゃっていました…。
そうそう、浜松の空襲の前の日に警報が鳴って、B29が一機だけ来て、その時チラシがまかれたの、今晩(空襲に)来るってチラシに書いてありました。私、3枚ぐらい拾いましたけどね。それ見て、まさかって思って、ちょうど兵隊さん通ったんで、「落ちてたわよ」って渡したら、「そんなもの本気にするな!」って言っちゃってね。
大庭:でも、ホントだったんですよね。
大中:ホントだったんです。だからあとで、終戦後松菱で戦争時代の展示会をした時に、それも展示されてましたね。「予告したのにみんな信じなかったから犠牲が大きかったんだ」って書いてあった。でも、やっぱり戦争中は、それは予告とは思いませんもの。みんな一斉に戦争の方に向けていたんですから。
生徒:日本が戦争に負けた時、どう思いましたか?
大中:玉音放送、意味が分かんなかったの。難しくて。何だったの?って。若い人ばかりだからね。ラジオも焼けちゃってあんまりないから、ラジオのあるうちに集まって聞いたの、重大放送があるからって。言葉が難しくて意味分かんないの。そしたら、近所のおじさんが「負けたんだよ、要するに、戦争終わったんだよ」って。みんな、ふうんって。ぼうっとしてたの。それでも、難しくて分かんない。それから浜松は8月終わりまで毎日バリバリって音がして小型機が来てたから、余計分からなかったのね。で、友達が「ラジオでは戦争終わったようなこと言ってるよ」って一週間ぐらいしてから言うのね。だから、終戦の実感は劇的には来なかったわね。実感として戦争が終わったって思ったのは、8月の終わりごろぐらいでしたね。
大庭:今日は短い時間でしたが、戦争についていろいろ体験談をお話して下さり、本当にありがとうございました。
生徒:ありがとうございました!

取材:2015年7月27日