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戦争体験文集を発行して


齋藤よう様、下山當子様(西遠女子学園高校 第4回卒業)

左:斎藤よう様 中:下山當子様 右:大庭校長

2018年5月31日、一冊の本が発行されました。『戦争に翻弄された私たちの子ども時代』。著者欄には、「静岡県西遠女子学園中学・高等学校昭和27年度卒業生有志」とあります。戦後、西遠で机を並べた皆さんが、それぞれの戦争体験を振り返りました。この本を編集し、出版された「編集委員」で、「まえがき」と表紙の絵を担当された斎藤よう様(旧姓 中村様 東京都町田市在住)、「あとがき」を書かれ、西遠にも10冊の本をお送りくださった下山當子(まさこ)様(旧姓 村松様 東京都練馬区在住)のお二人に、8月19日に新宿のホテルラウンジにお集まりいただき、この本が世に出るまでのいきさつや、お二人の戦争体験、西遠の思い出などを、校長の大庭がインタビューしました。

東日本大震災が体験文集発行の契機に…

大庭 「戦争に翻弄された私たちの子ども時代」を読ませていただいて、昭和27年度卒業生の皆様の体験の一つ一つに驚きましたし、斎藤さんの「まえがき」にも、下山さんの「あとがき」にも、感動しました。

下山 ありがとうございます。ほんとはね、もっとすごく簡単な本にするつもりだったんですよ。

斎藤 ホッチキスで止める程度の製本を考えていたんですよ。でも厚くて自分たちには出来ないから…。
下山 どうしようって、いろんな人に相談するうちに、「じゃあ、安くやってあげるから僕のところでやらない?」と言って下さる方がいて、それで思いがけなく立派な本になったんですよ。

斎藤 でも、皆さんがこんなに書くなんて想像できなかったわね。こんなに心に思っていることがあったなんて。今回、皆さんが戦争にこんなに反対しているということが分かったのは、私にとっては大きな収穫でした。

下山 戦争反対のことを書きましょうとは全然言っていないんです。だけど、みんな「戦争は嫌だ」という結論が自然に出てくるんですよね。去年ね、トランプさんとか北朝鮮とか国内もいろいろ危ないなと思うことがあったでしょう。その切羽詰まった雰囲気があったからみなさん書いてくださったと思うの。
 
斎藤 皆さんに呼び掛けた時には、ただ「子ども時代の思い出を書きましょう」程度だったのに。

下山 だって最初は地震の話だったのよね。

斎藤 そうそう。

下山 東日本大震災の時、私たちは東京にいて揺れを味わったけれど、子どもの時に経験した地震(昭和19年12月7日の昭和東南海地震)の揺れの方がよほど怖かったのね。それで、「私たちはもっと怖い地震を経験している」というと、皆さんその地震のことを分からないわけ。
戦争中、全然報道されなかったのね。

斎藤 地震があっても誰も助けてくれませんでしたね。知らないわけだから誰も来ないわよねえ。

下山 齋藤さんや私にとってはこの地震が知られていなかったということがすごくショックで、だからその話を書こうって言ったのよね。そしたら、地震は知らないっていう方もいたのね。東京にいらした方とか、その時浜松にいなかった方も。ですから、地震を含めてその頃の話を書きましょうということになって、この本が出来上がったんです。

戦時中の暮らし

大庭 お二人は戦争中にはどちらにお住まいだったですか?

齋藤 私は天神町(現在の浜松市中区)で、家は酒造りをしていました。7人兄弟の、私は下から3番目。広沢の附属(静岡第二師範附属国民学校・現在の静岡大学附属浜松小学校)に通ってました。一番上の姉は、昭和19年に嫁いで平塚(神奈川県)に住んでいました。一番上の兄が、19年の春から満州のハルピン学院に通っていたんですが、病気で19年の暮れに帰国しました。次の兄が浜一中(今の浜松北高)で、学徒動員で中島飛行機に通っていました。すぐ上の姉は西遠の1年生、弟は私と同じ附属に通い、一番下の弟は学齢前でした。

下山 私は野口町(浜松市中区)に住んでいて、八幡国民学校に通っていました。今の八幡中学の場所ね。昔は学校の周りは全部田んぼでした。父は教員をしていました。幼い弟と妹の3人兄弟です。

齋藤 附属にはね、最初はバスで通っていたんです。駅で乗り換えて通学してたんですけど、戦争になって、だんだんバスの本数も少なくなっていったので、広沢まで六間道路を徒歩で。結構あったわね。戦時中は、バスがガソリンから木炭車になって、力がないから坂を上がれなかったのよ。それでね、坂にさしかかると、私たち子どもは乗ってて良かったけれど、当時の旧制中学の人たちが下りて、車掌さんがピッピって吹いて、皆でバスを押していたんですよ。

下山 1年生の時にはまだ本はたくさんあって。「幼年倶楽部」という雑誌はほんとに厚かったのに、4年か5年の時、「少女倶楽部」を買ったら、すごく薄い本になってました。紙がなくなってきたのね。

齋藤 お習字も、紙がなくなったから、新聞に書いたり。そのうちに水で書くのが出たわね。何回でも使えるように。

下山 そうそう、水で書くから、乾くと見えなくなって、何回も使えたのよね。うちは、全集をびりびり破ってトイレの紙にしていたわ。私ね、トイレからいつまでも出てこなくて怒られたの。だって、ここで読んじゃわないと、次の時には、ねえ…笑。大事にしておけば戦後また読めるなんて、当時は全く考えなかった。

齋藤 時代を反映してると思うけれど、日独伊と中国の子たちが手を繋いでいる絵本なんかがあったわね。その頃、大東亜共栄圏なんて子どもは知らないから、すごく楽しい話だと思って見てた覚えがあるわ。

下山 私は「青い目と茶色の目」という童話を、戦前に買ってもらったことがあったの。青い目の子と茶色い目の子どもが仲良くなるの、でも最後は決裂するのね。子ども同士だからすごく仲良かったのに国と国との間で戦争が起きて決裂しちゃうんだけど、それが悲しい別れじゃなくて決然と分かれていく…。童話もそういう結論を書かなければ、たぶん出版できなかったんでしょうね。うちでは「主婦の友」をとっていたんですけど、そこにも、アメリカ人は残酷だというようなことばかり書いてあって。私は「鬼畜米英」というから、頭には角が生えてるぐらいに考えていました。一億玉砕、鬼畜米英だとか、本当に雑誌なんかで擦り込まれるんですよ、「平和は大切」なんて一行も書いてない。

齋藤 うちに精米所があって、おじさんたちがストーブの前で休んでいたの。私、そこによく遊びに行ってたわけ。壁にポスターが貼ってあって、「一億一心火の玉だ」って書いてあったの。兵隊さんの絵が書いてあって。

下山 そういうスローガンはすごくたくさん頭に入ったわね。

斎藤 昭和19年の秋祭りが9月25日にありました。屋台のパチンコの的がね、ルーズベルトとチャーチルと蒋介石だったの。ルーズベルトの体がロバで、チャーチルがタヌキで、蒋介石がキツネ。そういうのがね、パチンコの的で、当てると何かがもらえるようになってたのを、今もすごく覚えてるんです。

大庭 19年でもお祭りはちゃんとやっていたんですね。

斎藤 そう。その時ね、いつも学校に行く時はモンペだけど、お祭りだけワンピースで行ったのを覚えてます。

下山 19年のうちは、空襲警報があっても、爆弾はあんまり落ちなかったわね。だから、私は暮れにお餅つきしたのを覚えてるの、うちの庭で。それとね、母の実家が田町にあって、冬休みにそこに遊びに行ってたの。そしたら空襲警報が鳴って。子供一人で帰すわけにいかないから、祖母が叔母をつけてくれて、私の家へ帰った覚えがあってね。だから、その頃、空襲警報が鳴ったらとにかく孫を親元に帰さなくちゃいけないという認識ぐらいはあったんですね。

大庭 まだそんなに切迫感はなかったんですね。

斎藤 でも、12月7日の地震より前に空襲で家が焼けちゃった友達もいましたよ。彼女は植松町でした。当時、「大変だ、大変だ。いよいよここまで来た」って噂になりましたね。

そして、地震

大庭 そして、12月7日の地震があったんですね。

齋藤 私は国民学校4年生で、女子のクラスでは若い教生の男の先生とおしゃべりをしていたの。突然、大きな音がして。教室が吹き飛ばされるかと思いました。地震の知識など全くなかったので、何事が起ったのかと思いましたよ。机の下で目と耳を押さえていた時間を考えると、ずいぶん長いこと揺れていました。学校から家まで一時間以上かかって帰る途中、坂の下で住宅がつぶれていて、つぶれた二階建ての家の中に、挟まれた手が見えたんです。もう怖くなって足早に通り過ぎましたね。

下山 私はお習字の時間でした。突然の激しい揺れで、2階の教室は大混乱。みんなが廊下に飛び出して、私も慌てて後を追いました。でも、階段は高等小学校の男の人たち(今の中1,2年生)が怒涛のように降りていて。4年生の私たちにしてみたら大人みたいな人たちが一斉に階段を下りていくから、とても中に入っていけませんでした。二階の廊下は、防火水槽の水がザブンザブンこぼれて水浸しで、滑ったり転んだりして大変でした。うちに帰ったら、障子は弓なりになって破れているし、柱時計が墜落しているし、土壁が落ちて、赤土の埃だらけ。家の柱の土台がずれているところを親に見せられて、あと1センチずれてたら家がつぶれていたと聞いて、怖くなりました。

浜松の空襲、疎開

大庭 年が明けて、昭和20年になって、空襲がひどくなったのですね。齋藤さんが4月30日の空襲のことを、下山さんが5月19日の空襲のことをそれぞれ本に書かれていますね。この2回の空襲で、西遠でも動員学徒の29名と1名の引率教員が工場で亡くなりました。

齋藤 我が家は4月30日の空襲で全壊しました。上の兄が満州に5月1日に戻ることになっていたんです。その前日の4月30日に空襲だったわけ。

大庭 齋藤さんはその時、国民学校にいらしたんですよね。

齋藤 そう、その日は、登校途中に、高町の坂で弟が「あ、忘れた!」と忘れ物に気づいてね、叱られるのが怖かったのか弟はそこから家にトコトコ帰っちゃったの、私一人で学校に行って。弟がうちに帰ったところで空襲になったのね。警戒警報なしにいきなり空襲になって、家では、母、二番目の姉、2人の弟、そして一番上の兄の5人がみんな裸足のまま防空壕に飛び込んだんですって。その途端に、バーンって。そこでみんな生き埋めになったんですが、18歳の兄の力で脱出。兄がいたからみんな助かったんですよ。その日は、みんなで菅原町の親戚のお家に厄介になりました。翌日、私と二人の弟は、焼津の母の実家に引き取られ、兄も満州に行きました。父は兄がハルピンに戻るのを止めたそうですが、空襲の後、往還に兄の帽子と制服だけが飛ばされていて、兄が「これは『行け』という印だから行く」と言って聞かなかったそうです。靴は、篠原のおうちの息子さんの靴をもらって履いていきました。

下山 私はね、5月20日に父の実家に疎開するって決まってたんです。切符も買ってあって。そしたら、その前日の19日にほんとにひどい爆撃があったのね。うちのすぐ北の方に工場があって、そこには、盲・聾学校の生徒たちが動員されてきていて、その方たちもたくさん亡くなったみたい。私たちは逃げ込んだ防空壕の蓋が開かなくなってしまって、蒸し焼きになるかと思ったの。母たちの必死の努力で蓋が開きました。我が家も爆弾の直撃は受けなかったものの、本当にひどくって、家の中からお月見ができるくらい。その夜はもちろん家には泊まれなかったの。一度は八幡様に逃げて、そのあと、田町の祖父母が、広沢の普済寺の奥の隠居所みたいな所に疎開してたので、そこに、私達一晩泊めてもらって、翌20日に父の実家に疎開したの。あの頃なかなか切符は買えなかったんだけど、もう20日の切符が買ってあったのね。切符が5月20日のが割り当てられていたのね。とにかく切符買うのは大変でした。
大庭 疎開先はどちらだったんですか?

下山 袋井の南の浅羽町です。学校は上浅羽国民学校に通いました。浅羽は、田んぼが広くって、空が広くって、隠れるところが何にもないのよ。私自身は機銃掃射の経験があるから、怖くてたまらないわけです。こんな所に飛行機が来たら隠れるところがないのにと。でも、みんな、そんな経験ないから、のどかで。

大庭 実際、機銃掃射はなかったんですか?

下山 全然なかったんです。でもね、もちろん空襲警報が鳴ると田舎でも夜は電気を消さなくちゃいけないの。真っ暗になると、自分の家じゃないから、どこに何があるか分からなくて動けなくなっちゃって。ちょうど蛍をいっぱい紙袋に集めてあって、その光で「こっちだよ、こっちだよ」と導いてもらって防空壕まで連れて行ってもらったこともありましたね。

艦砲射撃が始まって

齋藤 一番下の弟だけ母の元に戻ったので、私と3年生の弟の二人が焼津の祖母の元で生活していました。西遠の姉と末弟は三ケ日の都筑の遠縁の家に疎開。7月になって、浜松に艦砲射撃が始まって、7月30日の艦砲射撃で両親と兄、長姉が焼け出されました。当時、家族は上池川町に住んでいました。長姉は前日、平塚で焼け出されて帰ってきたところでした。自転車で父が母を乗せ、次兄が姉を乗せて、ずうっと走ったんだけど、姫街道は浜松の街なかから北へ逃げ出す人でいっぱいだったんですって。その時、同じように北へとリヤカーを引く佐々木松次郎先生にもお会いしたそうです。艦砲射撃の翌日、7月の31日にすぐに焼津の私のところに迎えが来たの。父は仕事で浜松を離れられなくて、年配の番頭さんが焼津まで私と弟を迎えに来てくれたんです。私の祖母とか叔母とか叔父とかがいるところで番頭さんが話してるのが聞こえたの、「もう今連れて帰らなかったら、一生会えない」って。だから私も「何があってもついて帰らなきゃいけない」って思った。その時、私は高熱が出ていて、祖母たちは「こんな体でついてっちゃいけない」って言ったのよ。でも、大人の話を聞いていたから、「もうこれでおしまいだ。今帰らなくちゃ親と二度と会えない!」と思って。父が迎えをよこしたのも、親子一緒に死にましょうってことだったのね。もう生き残れるなんてことはあり得ないと父は思っていたようです。私と弟も三ケ日の都筑に合流しました。
下山 浅羽ではね、掛川寄りの高台の方から学校に通っていた人もいたんですけど、高台だから海が見えるんですって。毎晩、敵艦の明かりが見えるっていうの。敵艦はこうこうと明かりをつけてるんです。

齋藤 だから、大人たちが「これで終わりだ」と思うのも分かるわね。

大庭 都筑では空襲はなかったですか?

齋藤 終戦まで2週間だったけれど、空襲はなかったわね。だいたい、都筑には防空壕もなかったですから。B29が来たら、家に入ってやり過ごすのよ。

下山 とにかくB29は悠々と飛んでいくの。高射砲の玉は届かないんですよ。浜松には高射砲隊があったけど、全然届かないから、飛行機雲を引いて飛んでいって。あちらはもう怖くもなんともないんですよね。

そして、終戦 ―8月15日―

下山 終戦の日には本当にびっくりしたわよ。どこの国とも戦争してないの?って。生まれてから一度も戦争のない時代に遭ったことないから。

齋藤 そうね、私も それが一番。ホントに飛行機飛ばないの?って。いっつも飛行機の音がその辺でしていたから。ぐわーんぐわーんって。

下山 私は喜びというよりぽかんとした感じ。次の日に私は防空頭巾を持って登校しちゃったもの。

齋藤 私は「え、そんな世の中があるのか」って感じたわ。

下山 でもね、戦争末期に親がね「いざというときにはお父さんがお前を殺すから」って言ったんです。敵が上陸したら、って。そういうふうに切羽詰まってたのね。それで私は「イヤー」って泣いたの。そしたら母が「今そんなことを言わなくても」って。敵が来たら女子供はもうやられると思っていた。それで、やられる前に親が殺したほうが良いという雰囲気だったの。

齋藤 私は、国民学校の5年の時だったかしら、先生に言われたのを覚えてます。「上陸されたら、みんなの鼻も耳も切られちゃう。だから、竹やりだの何だので戦わなくてはダメだ」って。本当に怖かった。

下山 そういう時代だったわね。だから終戦でまた日常が戻るというのは、信じられなかった。びっくりしたわ。本当にこの本の皆さんの体験を読みながら、生きていることと死んでいることの差を考えちゃいますね。ちょっと爆弾が落ちるところが違っていたら、西遠だって焼けてしまっていたかもしれないし、皆だって死んでたかもしれない…。まさに紙一重でした。

齋藤 私、去年の8月15日にひ孫が生まれたの。だから「8月15日に、こんな世の中が来るって思わないほどほんとに嬉しかったその日に、赤ちゃんが生まれたっていうのは何重にも嬉しい日なのよ」ってメールしたの。ホントにあの喜びは忘れられない。

ちょうど「学制」が変わった

大庭 そして、皆さんが中学に入る時に、ちょうど学制が変わったんですね。

下山 うちなんか母が市立(現浜松市立高等学校)のすぐそばで生まれ育っていたから、母の姉妹も全員市立。私も市立に行く予定でした。でも学制が変わって、その年は募集がなかったの。だからと言って、新制中学(公立)に行っても、校舎はない、先生はそろってない。だいたい英語の先生が足りるわけがないのよ、理屈で考えても。英語は敵性語だったんだから。だから、その年は、西遠に殺到したのね。もともと西遠になじみのない人もね。

齋藤 そうね、市立は高校になってしまって、中学は募集がなかったのね。

下山 うちは祖母が助産婦だったので、戦後忙しかったんです。父は小学校の教師でしたが、物価が上がって、サラリーが追い付かない時代。私立はお金がかかるけれど、祖母の稼ぎで、西遠に行けたと思ってます。入学した最初の年には、教科書だって足りなかったの。教科書がいっぺんに来ないから、くじ引きだったのよ。その学年のうちに全員揃いましたけど、最初は間に合わなかったのね。にもかかわらず、英語の教科書だけは全員に配布されました。進駐軍の配慮かしら。中はジャック&ベティでした。そして、英数国以外は教科書がなかったと思います。高校3年になって、選択授業があり、私は生物を選択したの。高2の間に選択を決めるから、生物習う人には春休みに生物の宿題が出たのね。春休みに中学の理科の教科書を全部買って揃えて勉強してこい、って。「水の話」「空気の話」「機械の話」など、小さな教科書が7冊ぐらいあったわ。私たちが中学の時にはなかった教科書が、今の中学生はあるんだなあ、こんなので勉強してるんだなあってビックリしました。それを全部春休みに宿題で読んだの。大変でしたけど、とても良かった。良い宿題でした。

巌先生との意外な関係

下山 ところで、私の祖母は今の市立高校の前身に通っていたんですけど、そこで岡本巌先生に教わったんですよ。すごくいい先生だったって祖母から聞いています。

齋藤 おばあさまは明治何年ぐらいに通ってたの?

下山 私の祖母は日露戦争の頃に女学生だったの。

大庭 1904年が日露戦争で、1906年が西遠の創立の年です。ちょうど、西遠の創立を目指して、奥様の欽先生が東京で教師の資格を取り、巌先生が現在の市立高等学校で教鞭をとって、欽先生の学費を送金していた頃ですね。

下山 うちの祖母はたぶん2回卒で、1~3回卒の同窓生で「ひふみ会」という同窓会も作っていて、そこに巌先生をお呼びしたって。祖母が同窓会で楽しそうなのを、母はとてもうらやましいとよく言っていました。

西遠時代

大庭 西遠在学中はどんな部活動に?

下山 1年生の時はクラスで音楽が上手な人が級長さんだったの、その人に誘われて音楽部に入ったの。一番上は5年生、1年生はついていけないけれど一生懸命練習しました。次の年は演劇部に。3年では自治会長(今の中学生徒会長)をやりました。

齋藤 私はずっと絵画部でした。岡崎真夫先生、佐々木松次郎先生に教わりました。私の姉は演劇部で、岡崎先生に教えてもらって、狂言の太郎冠者をやったの。

下山 あら、その舞台、覚えてる!すごく上級生が素敵だと思ってたの。

大庭 戦後、皆さんのエネルギーが開花していた時ですね。

下山 私たちが高3の時にね、富郎先生が、最初の殉難学徒慰霊祭を本当に心を込めて挙行してくださったのね。その年にやっと日本は占領が終わったんです。

斎藤 そういう慰霊の式をやっとできるようになったのね。その式に、亡くなられた動員学徒の同級生の方々が参列されていました。お着物を着てる方もいらしたのを覚えてます。

下山 でもね、西遠って本当に天国みたいなとこでした。あの時代にね、バラが咲いてたわよね。

斎藤 校長先生のお庭にバラが咲いていたの。

下山 正門脇の生け垣にもね。校長先生、富郎先生ね、先生がバラのお手入れをなさってたの。そして、芝生がきれいでねえ。

斎藤 よく手入れされてたわね。天国でしたよー。

下山 ほんとに外の荒波が全然入って来ないのね。だから、お掃除やお行儀、お作法を丁寧に教えられるでしょう。創立90周年の式典に伺った時に、会場の生徒の皆さんを見て「あれー?昔どおりじゃない、この生徒たち」ってびっくりしたの。今、若い皆さんはがさつでしょ。「すごいわね、西遠は昔とおんなじ」って、本当に嬉しかったです。

戦争を振り返って

大庭 齋藤さんの上のお兄さんは満州へ戻った後、亡くなられたと本にありましたが…。

斎藤 兄はハルピンに戻った後、召集令状が来て、チチハルの連隊に入隊したそうです。見送る人も万歳もないまま、一人でハルピンから汽車に乗ってチチハルに向かったと、後に或る方にうかがいました。終戦になっても、兄の消息は全く分からないまま1年半が過ぎたんです。ある時、天神町の我が家にハガキが来ましてね、きれいな字で「息子さんの消息をご存知ですか」って。その方は、陸軍病院で兄とベッドが隣だったのだそうで、「天神町100番地」という我が家の住所を兄から聞いて覚えていてくれたんです。返事を書いたところ、今度は分厚い封筒が届きました。兄の最期について、知らせてくれる手紙でした。兄は1945年、終戦の年の12月8日に亡くなったのだそうです。病人は日本に帰れる、って聞いて喜んだ翌朝のことだったと。両親は、東北のその方のおうちまで訪ねて行って、詳しいお話を聞いて帰ってきました。その方は、起き上がれないほどのご病気だったそうです。

大庭 そのご病気の中で分厚いお手紙を書いてくださったんですね。

斎藤 両親は「とても立派な方だった」と話していました。

下山 同じ西遠に通ったお友達の間でも、戦争の体験は、本当に一人一人違いますね。今回、本を作りながら、狭い範囲に住んでいたはずの皆なのに、こんなに経験が違うんだとつくづく思いましたね。

斎藤 本が発行されてから、私はいくつかの新聞社の取材を受けたのね。新聞で紹介されたら、本を申し込んでくださる方が増えました。でも、皆さんほとんど70代、80代の方なの。出来たら、若い方にも、この本を読んでいただきたいし、戦争の体験をぜひ知っていただきたいなと思います。

大庭 西遠でもこの「戦争に翻弄された私たちの子ども時代」を皆で読んでいきたいと思います。今日は本当に貴重なお話をありがとうございました。

取材:2018年8月19日
※「戦争に翻弄された私たちの子ども時代」は、A5判165ページ。1500円。専用メール(sensounih@yahoo.co.jp)で受け付けています。