戦争体験を聞く 4

7月27日、母校を訪ねてくださった大中香代様にお聞きした戦争体験。
8月15日の公演を控えた高校演劇部の皆さんも加わりました。
カメラマンは理事長先生です。

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◇亡くなった人たち◇


大庭 ここで、高校演劇部の生徒たちにも加わってもらいましょう。彼女たちは、今度の終戦の日に、アクトシティ浜松大ホールで行われる、浜松市主催の浜松市戦没者追悼平和記念式で、「夕空」という劇を上演します。上演に向けて、先輩である大中さんにぜひ質問したいということです。よろしくお願いします。
生徒 よろしくお願いします。
大中 大中です、よろしくお願いします。

大庭 では、どんな劇かを紹介してください。
生徒 1995年の女学生が、郷土研究部で、神社の話を聞きに行った時に、戦争で亡くなった先輩の霊に出会って…というお話の劇です。
大庭 では、部員の皆さんから質問はありませんか?
岡本 役作りとかでもいいですよ。
生徒 はい。戦争で友達とか近所の人、先輩などが亡くなったと思いますが…、
大庭 たくさんの方を亡くされたんですよね。小学校のお友だちも。
大中 私の小学校の友達の中には、アメリカの飛行機が各地への爆撃の帰りに浜松に落とした、たったその一発で一家全滅になった方もいらっしゃいました。「なんか肴町のあのへんに一発だけ落ちたみたいよ」って、空襲がなくなってから見に行ったんですよ。通りは何ともなかった。「このへんに落ちたけど、どこだったか知ってる?」って、そしたら、「たぶん中村さんちのとこだと思うよ」って言うので、みんなでそっちに行ったんです。表通りはきれいなのに、一本入ったら、もう、大きな、直径5メートルぐらいの穴になってる。聞いたら、「みんな木端微塵で、肉片でさえなかなか見つからなかったみたいよ」ってご近所の方が言ってらしたの。
大庭 それが小学校の時のお友達?
大中 そうです、そうです。あそこのうちはたった一発で一家皆亡くなって気の毒よね、って話しました。元城小学校の同級生は360人いたんですよ、60人の6組ですから。終戦後5、6年後の時でしたかしらね、一度集まろうじゃないかと集められた時にはもう250名ぐらいしかいませんでした。遠くに引っ越した方やら、一家全滅の方やら。うちの町は、小さい町でしたけど、一家皆亡くなった方とか10軒ぐらいありましたね。うちは父が町内会長だったし、10年ぐらい続けて民生委員もやっていたので、毎年6月18日になると、町の人たちだけでも、って集まって近所のお寺さんに来てもらって供養したんです。空襲は一番怖かったです。
大庭 そして、西遠では動員学徒の方々も。
大中 そうです。西遠の3、4年生が工場に出てました。鈴木織機とか河合楽器とか。それで、昭和20年の4月と5月に亡くなられたんですよね。
大庭 動員学徒以外にも、亡くなった生徒さんがいたそうですが。
大中 空襲で亡くなった方も何人かいたの。私ね、一週間ぐらい前に何かで仲良くなった黒柳さんという方がいたの。空襲で近い人は急いで帰りなさいっていう時に、黒柳さんと門で別れる時に、いやに「またね、河合さん、またね」って。「あなたあの人と親しかったの?」って友達にいぶかしがられるほどだったの。その黒柳さんが、おうちが空襲で、左足が飛んじゃって、結局出血多量で亡くなって。他の人が、「あの日あなたに別れを告げたあの人よね。あの時だけどうして急に『またね』って何回も言ったんだろうね」って。とてもきれいな人で小柄な方でした。
大庭 ご自身、空襲の中を必死で学校から帰ったこともあった。
大中 防空壕を出て逃げると、前の防空壕が爆撃を受けて。家に帰って思い出すたびにぞっとして、その日は寝られないってことが多かったですね。あのおじちゃんも、あのおばちゃんも亡くなったんだわって。私の友達で一人ね、「あなたにあの時そう言われたけど、あの時は恐ろしさで思い出すこともできなかった」って。「しばらくしてから、ああ、そうだ、あのおじさんだわ、あのおばさんだわ…ってやっと思い出した」って。そのくらい人間の恐怖はすごいもんだと思いました。そんな恐怖には、できるだけ遭わない方がいいって思いますよ。
生徒 お友だちやお知り合いなどが亡くなり、ご自分が生き残った時って、悲しさとかいろいろどんな気持ちになるんでしょうか?
大中 私の場合は、悲しさは一カ月ほどたってから。それまでは自分の怖さが体に残ってて、もう抜けきらないの。やっと怖さが抜けて、ああそうだわ、あそこのおばちゃんが亡くなったんだわ、お世話になった…とか、あの子あんなに別れを惜しんでた、あれが最期だったんだわ…って、自分が落ち着いて考えるようになったのは、本当に1ヶ月ぐらいたってから。それまでは恐怖の方が強くって。そのくらい怖い。信じられないでしょうけどね。
大庭 亡くなった方を悼んで悲しみに暮れたりという余裕がなかったということでしょうか?
大中 戦争だったから。思い出して涙するっていうのは、世の中が落ち着いてからよね。それまででは、自分の身を守るのに精いっぱいっていう感じになっちゃってね。人が爆弾を落として、人から怖さを与えられた状態でしょ? わが身に戻ってこないのね。
私たちは小さかったから自然とこういう戦争の波に乗っちゃったけど、後にいろいろ本を読んだりしても、その頃絶対に戦争反対って言った人は容赦なく刑務所に入れられて、ものも言えない、文章も書けない状態にされた人も多かったと言いますよね。
岡本 うちの学校誌「友情」も、もとは「フレンドシップ」という名前だったけれど、戦争が始まる頃に英語の名前は使っちゃいけないっていうことになり、「友情」になったんですよね。
大中 私たちの頃はもう「友情」でしたね。でも、入学したころは発行が途絶えちゃっていました…。
そうそう、浜松の空襲の前の日に警報が鳴って、B29が一機だけ来て、その時チラシがまかれたの、今晩(空襲に)来るってチラシに書いてありました。私、3枚ぐらい拾いましたけどね。それ見て、まさかって思って、ちょうど兵隊さん通ったんで、「落ちてたわよ」って渡したら、「そんなもの本気にするな!」って言っちゃってね。
大庭 でも、ホントだったんですよね。
大中 ホントだったんです。だからあとで、終戦後松菱で戦争時代の展示会をした時に、それも展示されてましたね。「予告したのにみんな信じなかったから犠牲が大きかったんだ」って書いてあった。でも、やっぱり戦争中は、それは予告とは思いませんもの。みんな一斉に戦争の方に向けていたんですから。

生徒 日本が戦争に負けた時、どう思いましたか?
大中 玉音放送、意味が分かんなかったの。難しくて。何だったの?って。若い人ばかりだからね。ラジオも焼けちゃってあんまりないから、ラジオのあるうちに集まって聞いたの、重大放送があるからって。言葉が難しくて意味分かんないの。そしたら、近所のおじさんが「負けたんだよ、要するに、戦争終わったんだよ」って。みんな、ふうんって。ぼうっとしてたの。それでも、難しくて分かんない。それから浜松は8月終わりまで毎日バリバリって音がして小型機が来てたから、余計分からなかったのね。で、友達が「ラジオでは戦争終わったようなこと言ってるよ」って一週間ぐらいしてから言うのね。だから、終戦の実感は劇的には来なかったわね。実感として戦争が終わったって思ったのは、8月の終わりごろぐらいでしたね。
大庭 今日は短い時間でしたが、戦争についていろいろ体験談をお話して下さり、本当にありがとうございました。
生徒 ありがとうございました!

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大中さんの体験は、演劇部の生徒たちの心にも刻まれました。
平和を祈りながら、8月15日、「夕空」の公演が行われます。
今日は、長崎の原爆の日。
5年生が毎年訪れる地です。
平和への思いを込めて、11時2分に黙とうをささげたいと思います。