講堂朝会の感想から その3

2月22日にに行われた今年度最後の講堂朝会。
その1,2では、学校誌「友情」を巡る感想をお伝えしましたが、
講堂朝会では学園にあるいくつかの像のお話もしました。
講堂では、「希望の灯」像はどこにあるか?との私からの問いかけに、「?」と隣の友人と顔を見合わせる生徒も少なくありませんでしたが…、もう皆さん場所は確かめましたよね?
「希望の灯」像は、ここにあります。
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100周年記念グラウンドをバックに、たくさんの卒業記念樹に囲まれるように、左手に「パンドラの箱」を抱えた女性像が建っています。
静思堂のすぐ南側です。
右手の先には何が乗っているかご存じですか?
ぜひ、休校明けの学校で確かめてください。
そして、生徒の皆さんの認知度が高かった「17歳」少女像は、私がいつも「お気に入りの場所」として写真を撮っている本館教職員玄関の前に建っています。
正門から通う生徒の皆さん(南館に通う高校3年生以外)も朝な夕なにその前を通り過ぎています。
この像は、先々代の校長で、長く同窓会長も務められた中村静(しず)先生の記憶を形にとどめたいという同窓会の皆様の尽力によって、西遠に寄贈されたものです。
1990年のことでした。
「友情」175号にその詳細が書かれています。
講堂朝会では、この「友情」の中から、この像が建立された経緯と、この像に込められた思いを綴られた岡本肇校長先生の「巻頭言」を読ませていただきました。
肇先生は、その中で、「若さの持つ清潔感、飾り気のない気品」という10代の持つ財産に気づかずにいる若者の風潮に警鐘を鳴らしていらっしゃいます。
この巻頭言も踏まえて、生徒たちは17歳の像と西遠について、次のような感想を書きました。
☆17歳の少女という像は、私も毎日行きと帰りの2回見ています。17歳の少女像は、西遠のために作られたのではなく、名古屋の彫刻家の方に譲ってもらったものだということは初めて知りました。中村静さんという前の校長先生の功績を残すために譲っていただいたのだそうです。私は中村静さんにはもちろん会ったこともないし、よく知っているわけではないけれど、初めて聞く名前ではありませんでした。私の祖母や祖母の姉たちはほとんどが西遠の卒業生で、親戚の集まりに行くと、よく西遠の昔の話で盛り上がっています。その中で、中村静さんという名前を聞いたことがありました。中村静さんは、その人のために像を名古屋まで譲ってくれるようにお願いしに行った人がいたり、祖母たちが卒業から何十年たっても話しているようなすごい人なんだなと思いました。中村静さんについて、知ることができる機会があるといいです。(中学3年生)
☆17歳の像には、17歳の素の美しさに気づいてほしいという思いが込められています。自分の中で、「17歳の素」というものは何だろうということを考えた時、私は「飾らないもの」だと思いました。17歳の時期はどうしても周りを気にしてしまったり、自分をうまく出せない時期だと思います。実際に私もそういう性格で「素」というものを出すことがあまりありません。しかし、この「17歳の素」というものに、本当の美しさが入っているのであって、飾ってしまったものに本当の美しさはないのでは、と思いました。(高校1年生)

☆17歳の少女像では、この学校に入った当時は、まだまだ先の姿だと思っていたのですが、現在16歳で数か月後には同じ年になると思うと、時の流れがとてもはやく感じました。あの像のように、17歳の1年とその先が充実したものになるよう、勉強と行事などのメリハリをしっかりつけて過ごしていきたいです。(高校1年生)
☆「17歳の少女」像の由来を知って、もっとその像の存在を意識して生活しようと思いました。確かに今の若い人は、自分にないものばかりを望んで、自分の持っているものをおろそかにしてしまう風潮があると思います。みんな同じような二重瞼にして何の意味があるのかと思います。特に思うのは、学生が化粧をすることについてです。制服と化粧って似合わないなあと感じるのが本音です。母も化粧は反対派で、若い頃に化粧なんかしたら、せっかく何もしなくてもきれいな肌なのにもったいない、ボロボロにしている、と言っています。今回の話を聞いて、外見だけの美しさばかりを気にせずに、自分の素を大切にして、学生の本分の方に力を注ぐというのが、中村静先生、この像を建立してくださった同窓会の方々が、大切にして残そうとしてくださったものなのだと感じました。そういうふうにあと2年を過ごしたいです。(高校1年生)


もう一編感想を紹介しましょう。
彼女は、17歳の像を身近なものとして感じながら学園生活を送ってきました。
☆17歳の少女像、5年間毎日毎日何度も見てきていたのに、それにまつわるお話というか意味というか、そんな感じのものは全然知らなかったので、とても興味深いお話でした。こうして考えてみると、この西遠に入学した5年前、12歳だったころは、5年生なんてすごく大人で、遠い存在のように思えていたのに、そんなことは全然なくて、本当にあっという間に過ぎてしまったように感じます。中1のころ、少し大きめの制服を着て、制カバンを抱えながら見た17歳の少女像は、まだまだ遠くの自分を示唆しているような、それでいて、自分とは違った存在であることを体現しているような、そんな相反するイメージを抱いていた思い出があります。とにかく、自分の理解の及ばない不思議な像であるという印象でした。その後、中2、中3と年齢を重ねるうちに、大人っぽく遠い存在であった17歳の少女像は、だんだんと自分と近い存在となってきて、そして17歳となった今、なんだか彼女を追い越してしまったように感じます、年齢的には同じですが、なんていうんでしょう、私はあの17歳の彼女が何だかひどく純粋で幼げな少女のように見えるのです。抱くイメージの変わりように自分でも驚いています。これが成長というものなのでしょうか。もしかすると、卒業するときにまたイメージが変わっているかもしれません。それが自分でも楽しみです。(高校2年生)
生徒の感想を読み、講堂で自分が話したこと以上の収穫をもらうことが多々あります。
この感想が今回はまさにそれでした。
自身の5年間を振り返りながら書いてくれたこの感想には、50代の自分にはないみずみずしさがありました。
自分自身が17歳17歳と連発していた言葉が、ずいぶん軽かったことに気づき、反省しました。
そうです、西遠生たちは、17歳という年齢にこんなに繊細に反応するのです。
17歳の像は、憧れであり、自分を映す鏡であり、そして過去の自分を思う何かにもなるのでしょう。

17歳の像、希望の灯…学園のたくさんの像は、今日も語りかけてくれています。
そこに何を感じるか、一人一人が試されているのかもしれません。