東日本大震災から10年

今日は、全国的に穏やかなお天気です。春到来を感じさせる青空のもとで、3・11を迎えました。

今日、グラウンドからこの写真を撮った時、10年前の3月11日の夕方、自分がこの西館を見上げていたことを思い出しました。

2011年3月11日、東日本大震災が日本列島を襲いました。あの日、音楽コンクールの最中に揺れを感じ、東海道線が止まり、放課後、お迎えの車の誘導で私は西グラウンドに立っていました。寒さともどかしさと全容がつかめない不安の中で、トランシーバーがほとんど機能しなくて、目の前にそびえ立つこの西館がまるで大きな障壁のように感じられたことを思い出したのでした。幸い、自分の携帯は通じたので、西グラウンドから保護者の方のお迎えの状況を携帯で事務室に何度も電話しました。東北から遠く離れた浜松でも、この日の思いは忘れられないのですから、東北で甚大な被害に遭われた方々の寒さや悲しみ、苦しみはいかばかりであったろうと思うと、胸が苦しくなります。

あの日から10年、学園では今朝、SHRの時間に全員で黙とうをしました。午後2時46分のサイレンにも会議を中断し、黙とうを捧げました。大きな大きなサイレンの音に、目を閉じながら、いろいろなことを思いました。1分というのは実に長い時間です。10年前の音楽コンクールの風景が浮かびました。本や新聞記事で出会った東北の人々のことを考えました。ネットで見た津波の映像も頭をよぎりました。津波の映像をヘリから撮影したNHKのカメラマンさんが、その後NHKを退職したという記事も思い出していました。

3・11を前にして、私は三浦英之さんの「災害特派員」(写真中央の本)を読みました。このブログで何度か彼の著作「南三陸日記」を取り上げたことがありましたが、この本の帯に「もう一つの『南三陸日記』」とあるように、この本は、朝日新聞記者である三浦さんが震災で取材した人々・出会った人々と自分とのつながりを綴ったものです。何度も涙をぬぐいながら読みました。一番泣いたのが、河北新報社カメラマンの渡辺龍さんのことが書かれた「第11章 最後の写真」でした。今は亡き渡辺さんの撮影した「未来へ 笑顔の5歳」という写真が心に迫ります。この写真は2016年の東北写真記者協会賞を受賞しました。今日、この写真の続編と言うべき素晴らしい写真を、河北新報社さんが掲載したと、ネットで知りました。希望溢れるその写真を見て、また泣きました。

今、三浦さんの「白い土地」(写真左)を読んでいるのですが、だめだ、学校では読めない、泣ける、と2章で一旦本を閉じました。泣ける、というのは、悲しくてではなく、その本の中にある人々の希望や勇気に心揺さぶられるからです。ゆっくり読むことにします。

右の絵本「あの日からの或る日の絵とことば」は、一度ブログでも紹介しました。子供の本に携わる作家の方々が、3・11にどう遭遇し、どんな思いを抱いたのかを知ることができます。今日、私は、1・2・4年生への放送で、「大人の人からぜひ、3・11の話を聞いてほしい。皆、忘れられないあの日のことを語れると思うから」と話しました。本からも、こうして知ることができます。私たちは、大災害とその被害のことを決して風化させてはならないのです。知ることが大事だと切に思います。10年という「節目」という言葉が今年は色々なところで聞かれますが、10年たったから区切りをつけられるようなものではありません。生活は続きます。復興はまだまだです。原発の問題もまさに現在進行形です。若い生徒の皆さんには、ぜひ「知ること」を大事にしてほしいと思います。

子どもの心は繊細です。私たち大人は、そのことも忘れてはなりません。「こどもたちにえがおを」…てをつなごうだいさくせんは、たくさんの人気キャラクターたちが手をつなぎ、皆を元気にしたいというプロジェクトです。アトムもドラえもんもいます。ピカチュウもラスカルもくまモンもいます。私の大好きなスヌーピーとピングーも手をつないでいます。このサイトには、ダウンロードして多くの人にこの絵を届けてくださいと書かれていますので、私も掲載させていただきます!

笑顔がどんどん増えていきますように。日本中の人々が元気になれますように。