サーロー節子さんの生き方を学ぶ

夏休み前の授業納めの式の中で紹介した本
サーロー節子・金崎由美著
「光に向かって這っていけ」(岩波書店)
を読み終えました。

2017年のノーベル平和賞の授賞式でのサーロー節子さんのスピーチは、とても感動的で、これを聴いた世界中の人の心を打つものでした。
平和を希求する強い意志をお持ちで、物怖じすることなく世界中に「核兵器は絶対悪である」「核なき世界を求める」と力強い口調で訴えたその勇気や凛とした姿勢に感動し、私も、このスピーチの内容を、その年12月16日の講堂朝会で紹介しました。
昨年には日本にお里帰りしたサーローさんが母校の広島女学院大学で講演したことなど、連日ニュースで報じられ、私もぜひ講演を聴きたかったと思ったものでした。
しかし、彼女がどういう幼少期を過ごされたのか、被爆後どういう経緯でカナダに渡ったのか、どのようにICANの活動に加わられたのか、など分からないことがたくさんありました。
ですから、岩波書店から、今度サーローさんの自伝が出るという情報をつかんだ時、瞬時に本の予約をしました。
「光に向かって這っていけ」とは、サーロー節子さんが動員学徒として原爆に遭い、建物の下敷きになった時に、見知らぬ兵士から掛けられた言葉です。
その声を頼りに、必死に光に向かって這い出て、猛火の迫る場所から脱出することができた節子さん。
しかし、その建物には、友人がたくさん残っていました。
本には、被爆後、まっすぐ家に帰るのではなく、路傍の人々を助けるべく奔走する節子さんや友人の描写もありました。
両親と出会えたのは、原爆投下の翌日のことだったそうです。
甥の死については、ノーベル賞授賞式のスピーチでも触れていましたが、その弔いの時に泣けなかったことを彼女が長年にわたって辛く思っていたことも、本で知りました。
幸せな家族との時間が、戦争と原爆によって奪われ、彼女の中に大きく残った「怒り」。
向学心や行動力は人一倍の節子さんの根底には、この「怒り」があったのだと思います。
正義感が強く、だめなものはだめだという強い思いを持ち、思ったことを実行して、さらに周りの人々のために自分に何ができるかを考える…。
サーロー節子さんはそういう生き方で、その道を切り拓いたのだと分かりました。
留学先のアメリカで原水爆禁止の訴えを始めた時、非難や脅迫が続き、悩んだ末に、「沈黙しない。被爆した自分の思いを語り続ける」という決意をされたと言います。
脅迫に屈しない、節子さんの強い心には本当に感嘆しました。
留学前に知り合ったサーローさんと結婚し、カナダのトロントに居を移した彼女は、子育てをしながらソーシャルワークの勉強をはじめ、仕事を通じて人々との関わりを広げていきました。
もちろんそこには「平和」というワードがあったと思います。
そして、一人で語り始めた原爆への抗議や核兵器に反対する思いは、その後たくさんの被爆者と出会いながら、大きくなっていきます。
被爆者の方々が、それぞれの場所で孤独のうちに訴え始めたことが、だんだんと大きなうねりになっていくのを、本を読んで追体験しました。
そうした出会いが、ICANにつながっていきます。
ノーベル平和賞の授賞式では車いすで会場に姿を現した節子さん。
実はそれは不本意なことだったと言います。
歩けるけれども、時間の関係でそれが許されなかったのだそうです。
そうした授賞式の舞台裏も、
あのスピーチの中でも不本意だった部分があったことも、
この本の中で知ることができました。
もう一つ注目したいのは、著者のもうお一人 金崎由美さんによる「あとがき」です。
北海道生まれの中国新聞の記者である金崎さんが、サーロー節子さんの横顔をその文章の中で伝えてくれています。
そして、その取材は、彼女にとっての平和学習であったとも、金崎さんは述べていました。
私より約10歳年下の金崎さんが記者という立場でサーロー節子さんと深く関わりながらこの本の発行までを支えたことは、私にも大きな宿題を与えてくれました。
本の帯にある「いつの日か、最後の被爆者がこの世を去っても、思いを引き継いで行動し続けてくれることを願う」という節子さんの文は、金崎さんを含めた私たち世代への重い重いメッセージです。
節子さんからの渾身のメッセージを受け取り、私に何ができるのか、考えさせられています。
【追記】2019・8・5
サーロー節子さんのことをフォトジャーナリストの安田菜津紀さんが素晴らしい文章にまとめています。
こちらもどうぞお読みください。
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