服部克久さんのこと

日本経済新聞の「私の履歴書」は、各界の著名人が一ヶ月にわたって自身の来し方をたどるものです。
11月1日、作曲家の服部克久さんの履歴書が始まりました。
以来、毎晩「私の履歴書」を切り取って読み、
服部さんの足跡を辿りながらファイリングするのが11月の私の日課になりました。
心弾む1ヶ月でした。
服部克久さんは、現在80歳。
ちょうど10年前の3月3日、西遠女子学園の創立100周年の記念式にオーケストラを率いていらしてくださいました。
アクトシティの大ホールに鳴り響いた服部さんの音楽、オーケストラ部との共演、
そして100周年記念合唱団も加わっての感動のフィナーレは今でも鮮明に甦ります。
「私の履歴書」の服部さんの連載は、まずお父様の服部良一氏のことから始まりました。
お父様は国民栄誉賞も授与された高名な作曲家。
軍歌を一切書かなかった良一氏の若き日のことはドラマにもなったことがありました。
(※なぜそれを覚えているかというと、服部良一さんを演じたのが、チューリップの財津和夫さんだったからです。)
そんな父親を克久さんは、曲ができれば家族を集めて発表会をする「天真爛漫」な性格だったと回想しています。
そして、戦争の時代へ。
父良一さんが陸軍に配属され中国に渡ったあと、吉祥寺に住んでいた一家は東京大空襲を経験し、家族で富山に疎開、そこで克久さんは終戦を迎えたといいます。
戦争体験を読み進めながら、私は幼い頃母から聞かされていた爆撃や疎開、玉音放送など、母の戦争体験とオーバーラップするのを感じていました。
母は服部さんと同い年です。
戦後、服部克久さんは音楽に目覚め、やがてパリ国立高等音楽院へと留学することになります。
「渡仏」と題された連載⑫には、
神戸港から貨客船「阿蘇丸」に乗り込んだ彼の目に、
ワルツを刻む真っ白なハンカチが見え、
それが父の振るハンカチだと気づき、
自分も泣きながらワルツで返したというくだりがありました。
昭和30年、船でたった一人欧州に渡った19歳の青年。
飛行機で10時間ちょっとでヨーロッパまで行ける今の時代、
メールやライン、スカイプで遥か遠くの国にも瞬時につながってしまう今の時代からは
想像できないほどの覚悟があったことでしょう。
甲板と港でワルツを刻んだ親子のハンカチは、いかにも音楽一家らしい、粋で素敵な別れにも感じられました。
10年前の創立記念日、アクトの楽屋では友情編集委員による服部さんへのインタビューも行われていました。
そこで服部さんが若き日にフランスに留学されたことなども話題にのぼった記憶があります。
舞台では、「故郷に帰りて」も演奏され、異国から故郷を想ったエピソードも紹介されました。
しかし、今回文章で書かれた服部さんの留学体験に接すると、
舞台や楽屋のおしゃべりの中だけでは気付かなかった
異国での大変さや悲壮な決意、
猛勉強して必死に過ごしていた日々などがリアルに感じられ、
考えさせられることが多々ありました。
遠いヨーロッパでの日々も、順風満帆などではなく、
突然、病に倒れ、入院した時には、隣のベッドの老人の死に世の無常を想ったといいます。
なぜあんなに頑張れたのか、不思議なほど勉強した、とも書かれていました。

ライフワークとも言える「音楽畑」シリーズで、
服部さんは心浮き立つような音楽、染み入るように胸に響く旋律、ワルツやボレロからラップまで
実に様々なジャンルの作品を世に出してしらっしゃいます。
そうした「インターナショナルポップス」を目指した原点も
パリでの体験にあったのだと、「私の履歴書」を読んで知ることができたのでした。
今年6月、私は、服部さんも出演されるコンサートを聴きに
神奈川県川崎市まで出かけました。
「作曲家の祭典2016」は、日本を代表する六人の作曲家(山下康介さん、岩代太郎さん、渡辺俊幸さん、宮川彬良さん、千住明さん、そして服部克久さん)が集い、それぞれ「愛」をテーマにした新曲を発表するという、夢のような企画でした。
そして、一堂に会した作曲家の皆さんの中でも、服部克久さんは輪の中心にいらして、いかに周りから尊敬されているかが分かる温かいコンサートの夜でした。
「私の履歴書」の前半には、父服部良一氏のもとにたくさんの音楽家が集ったことが書かれていましたが、今や克久さんがそうした存在なのです。
そして、作曲家の系譜は、息子隆之さんへと続いています。
隆之さんとご自身の音楽の共通点は
「必ず1カ所は胸がキュンとするところをつくること」
11月30日の最終回には、そう書かれていました。
なるほど、「音楽畑」の「淡紅色の夢」にも「鯨のボレロ」にも、
隆之さんの「真田丸」「新撰組!」のテーマにも、
共通して「胸がキュンとするところ」があります!
連載の最終回、紙面には、
息子の服部隆之さん、
そしてお孫さんでバイオリニストの服部百音さんとの3ショットが
カラーで掲載されていました。
「服部家3代」というタイトルが、新たな世代へのファンファーレのようでした。

6月のコンサートをきっかけに、再び、朝晩の車内で「音楽畑」を聴く機会が多くなりました。
励まされ、心癒される服部さんの音楽は、「私の履歴書」を読んだあと、ますます深く静かに響いてきます。
最終回では、10年前(ちょうど西遠の100周年の直後)に脳梗塞で倒れたことも書かれていました。
今年6月に楽屋でお目にかかった時には、そんな病のあとを感じさせないお元気さでしたが、
そこまでのリハビリに励まれたご苦労も最終回には綴られていました。
これからますますお元気で、日本の音楽界を引っ張ってくださいますよう、私は心から祈っています。