被爆クスノキに見守られて

西遠には、「被爆クスノキ」が茂っていることをご存じですか?

体育館の北、ローズガーデンを見守るように、大きな木陰を作るこの一本の木(写真右端の木)が、正確には「被爆二世クスノキ」です。長崎市の山王神社にある大きなクスノキが、1945年8月9日の長崎への原爆投下の際、熱風で焼かれ、一時は枯れかけたものの、次第に枝を伸ばし復活しました。何年前かの紅白歌合戦で福山雅治さんもこの木のことを歌いましたね。その復活したクスノキの子どもが、西遠の「被爆二世クスノキ」なのです。

このクスノキは、2002年に、長崎の被爆者 和田耕一様より学園に贈られました。18歳で被爆した和田さんは、被爆の体験を「語り部」として多くの方に語り続け、研修旅行で訪れる西遠の生徒にも毎年そのお辛い体験を話すことを長く続けてくださっていました。たくさんの卒業生が和田さんの壮絶な被爆体験を聞き、原爆の恐ろしさ、戦争の恐ろしさを知りました。

今から4年前の2016年、ご高齢の和田様が西遠生への語り部を引退することになりました。長崎を訪れた高校2年生たちが和田様に感謝のセレモニーを行い、学園から感謝状を贈らせていただきました。

ローズガーデンの横に茂る「被爆クスノキ」は、和田様と西遠に集う私たち教師や生徒がこれからも希求し続ける平和の象徴です。

今週末6月20日には、延期されていた「殉難学徒慰霊式」が行われることになり、主催する中高生徒会執行部が、いま大わらわで準備に励んでくれています。平和や命の尊さを考える、大事な大事な式典を1か月遅れでも実施することができ、本当に嬉しく思います。75年前の明日6月18日には、たった一晩で1700名が亡くなり、「全市壊滅」とも言われた浜松大空襲がありました。6月は、浜松にとっても辛い戦争の記憶の残る月なのです。

今日の全校朝礼では、高校生徒会執行部から「当日のお花は、おうちにある方だけで構いません」という連絡がありました。いつもは全校生徒が持ち寄る花で講堂の舞台を飾りますが、密の回避もあり、式典準備を最小限にとどめることになりました。 折り鶴やお花を舞台いっぱい大掛かりに飾ることはできませんが、平和を願う心を込めて戦後75年の節目の式を執り行いたいものです。

「被爆二世クスノキ」が見守る体育館の中では、中学3年生の体育の授業が行われていました。間隔を取って、バレーのサーブ練習に励む生徒たちでした。

コロナウイルスの影響で、「普通」の学園生活ができない日々が続き、いつもそこにあるはずの「当たり前」が奪われる不便さや理不尽さをたくさんの生徒が味わいました。それでも、空から爆弾が降ってくる恐れはありません。75年前に、動員学徒として、学校ではなく工場に通う毎日の中で、勉強がしたい、友だちとゆっくり笑い合いたい、と思った戦時中の先輩たちの思い、死の恐怖と常に隣り合わせの日々の中で「君見ずや明日は散りなむ花だにも力の限りひとときは咲く」を口ずさんで自らを鼓舞し続けた先輩たちの心中を少しでも想像し、さらに、いつ終わるとも知れない戦争の日々がどれだけ人々の心や生活を蝕んだのかを考えていかなくてはなりません。

慰霊式当日は、テレビや新聞社の取材も受けることになりました。「愛の灯」の歌、代表による慰霊の言葉、そして、平和の作文の朗読など、西遠が発信する平和への思いと行動が、多くの皆さんの胸に届くことを願います。

なお、西遠公式ホームページには、「戦後70年ー西遠の記憶」として、戦争体験者の皆様のお話を掲載させていただいています。卒業生やご遺族の方の文章や絵、そしてインタビュー内容が掲載されておりますので、西遠の関係者の皆様の貴重な体験をどうぞお読みください。 

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