戦争体験を聞く 1

高女37回卒業生の大中香代様が7月27日に母校を訪問してくださいました。
校長室でうかがった、大中様の戦争体験を、ブログでもご紹介します。
大中香代(旧姓 河合)さんは、昭和6年5月のお生まれ。市内尾張町に育ち、元城小学校を経て、昭和18年、静岡県西遠高等女学校に入学されました。
掲載第1回は、まだ空襲が始まる前の西遠での日々。

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◇懐かしい道を通って◇
大庭 今日はお暑い中、東京から母校にお越しくださり、ありがとうございます。6月の「東京そでし会」(首都圏在住の卒業生による同窓会組織)では、大中さんがご自身の戦争体験をお話になられました。今年は戦後70年、このお話はぜひ改めてお聞かせ願いたいと思い、ご来校をお願いしてしまいました。
大中 何をどうしゃべっていいかわかりませんから、聞いて下さったら、何でも話しますね。今も(こちらに来る)タクシーは六間道路を通ったんですが、女学生のころ、うち(尾張町)のところから北に来て、ちょうど日本楽器、そこで六間道路に出て、真っ直ぐに東に来て西遠でした。当時「通学隊」と言って、地区の西遠の生徒が集まって登校していたんです。だから、今、懐かしい道を通ってまいりました。
大庭 今、小学生が行っている「集団登校」と同じですか?
大中 そうです。私たち、2列で1グループ10人前後で歩いて通っていました。他にも、広沢など坂の上の方から来る隊もありました。
大東亜戦争が始まったのが、私が小学校の4年生の時だったんです。4年生の12月8日に始まりましたでしょ、戦争が始まったと言っても何が何だか分からない。朝校庭に集められて、「戦争が始まったんだって」「ああそうなの」、と言ったぐらいでした。みんなまだ戦争が何か分からない。ただ、大変なことになったんだなあということは感じました。
そして、18年4月に西遠に入学しました。

◇富郎先生の思い出◇
大庭 西遠高等女学校ですね?
大中 はい。姉がその時4年生にいたんですね。笠井から来てらっしゃる原野さんが、今で言う生徒会の会長で、うちの姉の河合ひさが副会長だったんですよ。姉は当時の校長の岡本富郎先生にすごくかわいがられたらしいんですよ。私が入学した時、富郎先生に「お前、ひさの妹だってな」と言われて、また(比べられて)嫌だなあと思ったんですよね(笑)。
大庭 富郎先生とはどんな思い出がありますか?
大中 あの頃、第2校庭に「たこつぼ」って言ってね、防空壕じゃあ間に合わないからって「タコつぼ」を掘って、3人入れるようにって、下級生は穴をみんなで掘ったんですよ。富郎校長先生も一緒に掘ったの。そんな仕事をしたのは、私たちの学年だけなんですよ。だから、それから先生がぐっと身近になっちゃってね。だから、戦後も同窓会なんかがあると、何かというとね「先生、あの時、たこつぼ掘ったもんねー」とか言っちゃって、私たちの学年はみんな遠慮なくいろんなこと言うんですよ、それで私たちの学年がいると、「こいつらだよ、おれのこと笑ったやつは」って先生がまずおっしゃる。嬉しそうに笑っておられました。一緒に穴掘ったりした楽しさが残っているから。「先生、もっと頑張って掘って」なんて遠慮なく言ってね。それだけ、先生とすごく近くで過ごしたんです。
その頃、学校工場っていうのが西遠にできましてね、第2校庭に面した新校舎の中を全部ぶち抜きにして、そこで、今で言うビニールの袋を作るのを1年上の人たちがやってました。
大庭 西遠で?
大中 そう、それにお米を入れてお水を入れて炊いて、密封状態にして戦地に送る、その袋を作ってるんだっていう話でした。今で言うと、物は違うんでしょうけど、ビニールみたいな、ああいうものですね。そこでロスしたものをよく校長先生が私たちのとこへ持ってきてね、その頃みんな下駄を履いても良かったんですよ、履物なんてなかったですからね。それで、「下駄の鼻緒が切れたやつは、これを代わりにしろ」っておっしゃってね。確かに丈夫なものでしたねえ。
大庭 学校の中にも工場があって、先輩たちが働いていらしたとは、知りませんでした。
大中 1つ上の先輩でした。もっと上の3年生4年生は動員学徒として市内の工場に行っていましたから。鈴木織機とか、河合楽器、それからどこでしたっけ、常盤かなんかに小さなお菓子の会社があって、そこにも行ってたわね。私たち1年生はそういう工場での仕事はなかったですけどね。私たちが作業したというのは、防空壕を掘ったり。
大庭 畑も作っていたと…
大中 そうそう、それは「農業の時間」って言ったんです。
大庭 そこも耕して。
大中 そうですそうです。しまいには、第3校庭って言ってね、修身堂の横。今の静思堂ね。その横も全部畑にしちゃって。最初の年は、ピーナッツかなんかが取れたらしいんです。先生がそれを物置に置いといたら、一夜のうちに盗まれちゃって。農業の先生、内山先生っていったおじいさんの先生だったんですけど、いやにしょぼんとしちゃって、「内山先生どうしちゃったのかしら」「南京豆を盗られちゃったんだって」なんて、そういうことがありました。
大庭 昭和19年の暮れには大きな地震もあったということですが…。
大中 昭和19年12月7日ね。ちょうど、第2校庭に生徒が集められて、校長先生がお話なさってたんです。「明日12月8日だから、明日から戦争が厳しくなるから、緊張しなさい」っていう話の最中に地震が来てね。校長先生が台ごとひっくり返っちゃったんです。それ見て、校長先生が台からおっこったのがおかしくって、自分たちが立ってられないのに、みんな転がってげらげら笑ってたんですよ。笑って、しばらくしてひょっと見たら、科学館っていう建物が校庭の東にあってね、階段教室がある建物で、それと講堂(※木造の旧講堂)がね、ゆっさゆっさゆっさゆっさ揺れてるのよ。それでね、初めて地震なんだと分かったのよ。
 それで、10年たってからかな、東京で初めての同窓会の大きいのをしたときに、富郎先生いらしてその時の話をして、「先生、台から落っこって、みんな笑っちゃったのよね。なんで笑ったかわかんないけど、あとから地震だって気がついたのよね」って言ったら、先生「ホントにお前たち悪い奴らだ」って言って(笑)。

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当時の校長先生である富郎先生との思い出を語る大中様は、とても楽しそうでした。戦争という非情な時代にあって、敬愛する恩師を得たことは、女学生の皆さんにとって大きな宝物だったのではないでしょうか。
第2回は、大中様が機銃掃射に遭われた時のお話です。  

つづく