令和版「美しきもの」~西遠生が感じる「美」~

満月、ご覧になりましたか? 今夜は今年最後の満月です。コールドムーンというのだそうです。昨日・今日と二晩続けて写真を撮ってみましたが、丸さの違いはどうでしょう?

寒い中で空を見上げて月の光の美しさに心奪われることがあります。帰路、運転席から見えるまあるい月に見守られながら、幸せな気持ちで家に帰ることも。月の美は満月だけではありません。細ーいお月様がアクトタワーにかかって見えて感激したこともありました。また、ちょっとお月様が割れて沸騰したような「寝待月(ねまちづき)」「更待月(ふけまちづき)」も、一見グロテスクに見えますが、なんだかおかしみもあって風流ですね。月の満ち欠けに感慨を持つようになったのは、歳のせいでしょうか(笑)。

清少納言の「枕草子」では、「美しきもの」として、小さなかわいい物やしぐさなどが列記されていて、清少納言の美意識が余すところなく表現されていますね。古語「うつくし」は「かわいい」という意味でした。

今年6月の講堂朝会では、「私たちは美しいのか」と題して、全校で「美」について考えました。生徒たちはどんなものや殊に「美」を見出しているのでしょうか。彼女たちの感じている「美」を集会記録から少しご紹介しましょう(感想は初めて紹介するものです。これまでのブログでご紹介し切れなかったものにもたくさんの「美」がありました)。

  • 私は、自転車で通っていて、川沿いを通るのでその景色が美だと感じました。また、春になると桜が満開で、川に落ちている花びらがとても美しいと感じました。(中学2年)
  • 私が最近美しいと思ったことを考えてみると、意外と存在するものでした。とても澄んで晴れ渡った蒼い空やそこに浮かぶ雲、梅雨が近づき咲き始めた紫陽花、イヤホンから流れる不安定なピアノの旋律など、”美しい”や”綺麗”そして失いたくないと漠然と思う気持ちが湧き上がったのが鮮明に思い出せました。きっと他にも忘れているだけで日々見ているもので心が動くものはたくさんあったのだと思います。(高校1年)
  • 美しいものを聞かれたとき、思い浮かんだのは、テレビで聞いたあるピアニストの人の音色です。その人の音を聞いたときに、とても難しい曲を弾いていて力みがちになるはずなのに、それが全く感じられなくて、むしろとても優しい音色が響いて、ピアノからこんなきれいな音が出るのだと感動しました。(高校3年)

こんな感想も私の心に残りました。美しいものを美しいと言うことの大切さに触れた文章です。

  • 私も金曜日に見た空の景色や現在部活で大会にむけて演奏している曲、川沿いの太陽で輝いた川などを「美」だと感じます。ですがはじめに校長先生に「あなたにとって美と感じるものはなにか」と問われたときにパッと答えることができませんでした。そのときには美しい・きれいだと感じているのに、自分はそれを一日経ったら忘れてしまっていることに気付かされました。78年前「浜松大空襲」があった日、浜松市戦災遺族会主催「浜松市戦災死者慰霊祭」が行われています。そしてこの慰霊祭で西遠の先輩方が司会進行の役目を務めました。戦争中の人は「美しいものを美しい」ということができたのでしょうか。「美しいものを美しい」と感じられることができたのでしょうか。私は「美しいものを美しいと思える」このことがとても幸せなことだと実感しました。ですが今までの私はそのことを「当たり前」と考え、美しいと感じることが日常であると思っていました。私は今回、国語の授業で習った「世界はうつくしいと」という詞を思い出しました。その詞の一部には「うつくしいものをうつくしいと言おう」とあります。私はこれがとても大切なことであると思いました。現在の私は美しいと感じても「美しい」と言葉には出しません。思っただけで終了してしまい、次の日にはすぐには思い出すことさえできなくなっていました。これからは自分が感じた風景など声に出したいと思いました。そして自分の一日を色鮮やかにしていきたいと思いました。何もなかった一日ではなく、たくさん感じた鮮やかな一日にしたいと感じました。私はこの講堂朝会まで自分が見た景色・感じた思いなどがあっさり消えてしまいそうになっていることに気づいていませんでした。それは自分にとってすごく衝撃的なことでしたし、後悔をしました。大人になってからも思い出して幸せになれるような、笑ってしまいたくなるような鮮やかな一日にできるようにこれから過ごしていきたいです。そしてこうして自分の日常を振り返ることを大切にしていきたいです。(中学3年)

西遠生たちの感じる「美」はいかがでしょうか。「美」を感じ、「美」を表現しようとする10代の豊かな感性を、西遠では美しい学園環境の中で、これからも大切に育みたいと思います。