戦争体験を聞く 3

高女37回卒業生の大中さん。
尾張町にお住まいだった大中さんは、昭和20年6月17日の夜を迎えました。

☆  ☆  ☆

◇6月の浜松大空襲◇


大庭 そして、6月の浜松大空襲があったんですね。
大中 6月17日の夜11時半過ぎでしたね。兄の袋に腕時計が入っていて、それが11時20分で焼き切れているんです。空襲警報も何もなく、いきなり家の周りが真っ赤な火の海。アメリカ軍が焼夷弾を初めて使った町が、浜松と津と鹿児島とあと1つだと言われていますよね。終戦後に松菱百貨店で浜松空襲の写真展があった時は、展示で町の周りから焼夷弾を落としたのが分かって。周りから家が焼けたからみんな町の中心部に向かって逃げて、中心には焼け焦げた人がいっぱいいました。私も一歩違えばそういう人になってました。
大庭 尾張町といったら、浜松の真ん中。大中さんのご家族はどういうふうに逃げられたんですか?
大中 ちょうど寝てたら、爆音が聞こえて。聞こえたと思ったら、照明弾が落っこちてきて。警報も何にも鳴らないで、いきなりババババって明るくなって、「え?」って思ったら、もう真っ赤だったんですよ、周りが。家族で高台の坂の上に逃げ上がったんですよ。その時、後ろから来たおじさんがね、ふっと見たら、火力でグイッと吸い上げられて、ばたんと倒れてね。帰りに見た時には、まっ黒焦げになっていました。今でも、6月17日の夜になると寝られないですね。
坂を登りきった時に、左に行こうと思ったら燃えてる、右も燃えてる。父は何しろ「こっちの方が火の回りが薄いから」って右に行ったんですけど、やっぱり燃えてて、そこに井戸を見つけたの、飾り井戸。そこはね、昔の棒屋の社長さんのお屋敷だったらしいけど、爆弾でお屋敷は壊れてたの。もう逃げるとこがないから、とにかくここへ入ろうってことになって、一本、井戸に木を入れたと思うんですよ。そして、私が最初に入って、水面ぎりぎりだったんですよ、そこに折り重なって、次々に突っ張って。
大庭 縦に折り重なって井戸に?
大中 人間、命助けようと思ったら何でもやるのね。とにかく突っ張り合ってました。
大庭 その井戸には大中さんとどなたが入ったんですか?
大中 私と、すぐ上の姉、母、父、それから姉がもう一人、そのうえに兄。兄は長男なんですけど、その兄が井戸に入る直前に背中に焼夷弾を受けちゃったんですよ。やけどじゃなくて打撲だったんですね。それで負傷した兄を一番最後にしようって言って。近所のおじさんも一人入って。
大庭 大中さんが一番下?
大中 そうそう、とにかく折り重なってますからね、それで、とにかく周りに何回も焼夷弾がおっこったんですよね。焼夷弾の落ちる音が何回も何回もして、井戸の上を見上げると炎がすごい。夜じゅう炎があがって。どのくらい時間がたったか、後で勘定したら5時間ぐらいたってましたかね。空が青くなってきたの。それで、「空が青くなったわよ」って言ったら、「もう爆音も聞こえないから大丈夫だろう」って、一番上にいた姉とよそのおじさんとが這い出てくれたの。それで、近所の人を呼んできてくれたの。それで、一人ずつ、その辺にある壊れてた電線やなんかで吊り上げてくれたの。で、兄が一番重傷でしたからね、一番最後にして、一人よそのおじさんが入ってくれて、一緒に兄を上げたんですけどね。母は井戸水に半分浸かっていたから凍えちゃって意識を失って。その辺焼けてますからね、地面も熱いんですよ。そこに母をじかに寝かせて、どっかの人がお布団持ってきてくれて、その上からお布団かぶせて。2時間ぐらいで目が覚めましたね。
私は井戸から出た途端に、ぐるっとまわりを見たんですよ。そしたら、このくらいの太さ(直径20センチぐらい)の、1メートル50センチぐらいある焼夷弾が14発おっこってたの、思わず私、勘定したんですよ。そのうちの1発でも井戸に落ちてたら、私たちいないわよねっていうような感じだったんですね。
母が気がついて、ちゃんとものが言えるようになってから、じゃあ、ぼちぼち帰ろうか、うちに戻ってみようって、その坂を下りていきました。うちは角から3軒目なんですよ、でも、焼けて何もなくて気づかず通り越しちゃって、こんなとこじゃないから戻ってみようって言って、戻れ戻れって戻って。焼けちゃって何にもなくなると分からなくなるんですよね。「あ、ここだ」とやっと家の位置を見つけて。一番奥に防空壕、そこにいろいろ埋めたんですよね。そこまで行こうって言って、燃えかすがまだ熱いのにね、かろうじてそこまで行こうとしたら、途中に足に引っ掛かるものがある。「なんか引っかかるよ」って言ったら、母が「じゃあ、引っ張ってごらん」って言うので、ずっと引っ張ったら、布(きれ)なんですよ。ところどころ破けてるけど、布だ、と言ったら、みんなびっくりしてね。そこで、水道で布をジャージャー洗ったら、なんと、前の晩に「これでモンペもう一枚作りなさい」って母がくれた絣(かすり)だったんです。その頃の絣は色が出るから、色を出しちゃう為にたらいに水を張ってつけておいたの。そしたら、たらいの水から出ているところだけ焼けちゃったわけですよ。たらいも焼けちゃって。中の布だけ残ってたの。「こんなだったら、みんな浸けとけばよかったね」って。ホントに、あれは奇跡でした、布をそこで洗って、ぽこぽこ穴のあいたところはつぎ足して、あとでモンペを作りました。
あの夜の空襲では、周りの家が炎の勢いで震えているんですよ。向こうの方ではば-っと家が崩れて。その中、ホントにタッチの差で逃げて、井戸の中に5時間。出た時に姉の持っていた時計で6時ぐらいでした。その時に、言ってみれば生まれ変わったみたいなものですよね。

◇空襲で家を失って◇


大庭 尾張町の家がなくなってしまった後は、どうされたのですか?
大中 兄が息もできない状態だったので、近所の人が即席で担架を作ってくれて。今の中沢に兄の友達のうちがあって、そこならうちが残っているかもしれない、と連れてった。そこにお兄さんが一人残っていらして、「うちは誰もいないからって家へ入んなさい」って言ってくださって、それでしばらくそこを借りてね。
大庭 では、そこでお兄様は養生して?
大中 はい。でも、その兄も、8月10日に入隊しろって、召集令状が来たんですよ。近所のお医者さんに相談したら、そのくらいの怪我では兵役免除してくれないから、行くだけ行ってごらんって。それで兄は埼玉の隊に入ったんですよね。ホントに生きて帰っては来られないねって言いながら行ったんですけど、そしたら8月15日に終戦になって、5日間の軍隊生活してきたんです。
うちの兄は割に筆の立つ人だったんで、入隊したその時に、「この中で字の書ける奴いるか」って言われて、ハイって手を挙げたんですって。おかげさまで、部隊長のすぐ横で、手紙など書く仕事にあたって。だから全然重労働もなくって、帰って来たんですけどね。でも、結局、無理がもとで結核になって、20年ぐらい天竜荘とうちと行ったり来たりでした。でもまあまあ元気になってね。もうホントに戦争はいろんなことを経験させてくれました。
大庭 大中さんご自身は笠井の方に行かれたとか?
大中 私は、西遠の分教場が笠井にあるから、笠井の親戚のところに行って。西遠は、笠井とか、篠原とか、高塚とか、方々に分かれて分教場を作って、そこに先生がいらして授業をしたんです。
大庭 笠井へは空襲はなかったんですか?
大中 そうですね、あの辺は「浜松が焼ける時はすごく空が真っ赤になったよ」なんてことを言ってたくらいでしたからね。でも、7月28日だったと思いますが、艦砲射撃の時はもう怖かったです。笠井から南の方を見ると、火の柱みたいなのがしゅーっと上がるんです。上に行って、通ってる時は見えないんですけどね。それがしゅーっと落ちてくると、もう笠井のあたりでもグワーッと揺れたぐらいですからね。
いとこは舞阪に住んでいたんですが、その時のことを「浜にいたらアメリカの軍艦が6隻はいたのが見えたよ」って言ってました。
大庭 お姉さんは4年生でしたが、動員学徒で鈴木織機に行かれていたとか。4月と5月の爆撃の時は?
大中 工場が二俣に引っ越したんですよ、だから、二俣に行っていました。森の中に工場作って、そこへみんな行ってたんだと思います。
大庭 二俣まで毎日通ったんですか?
大中 いえいえ、みんな寮生になったんだと思います。宿舎を決めて。
大庭 お姉さんは泊まり込みで?
大中 はい。そうです。
大庭 そこは爆撃に遭わなかった?
大中 そこまでは爆撃はなかったですね。でも、姉がなんかで病気になったのかな、他の人より早く帰ってきたことがあった。それで校長先生から学校の方に手伝いに来いって言われたとか言って、学校の事務に手伝いに来てたような覚えがあります。

☆  ☆  ☆

いつ終わるか分からない戦争。
先の見えない不安の中での日々。
大中さんの戦争体験は続きます。

つづく