授業納めの日に

西遠女子学園の2016年の授業納めの式を本日行いました。
全校生徒が講堂に集い、まず、12月に様々な大会やコンクールで入選・入賞した生徒の「大会報告」を行い、生徒たちの活躍に拍手を贈りました。
続く「授業納め」の訓話で、私は110周年の記念の年を振り返り、12月10日の講堂朝会で投げかけた「挨拶」について全校生徒から寄せられた感想の何編かを読ませてもらいました。
挨拶について、全校の皆さんに様々な角度から考えてもらいたかったからです。
・高校3年生として「西遠の挨拶をなんとかしなくては…」
・入寮指導生を経験して「正しい言葉遣いや正しい挨拶は相手に伝わる」
・「品」について考えた生徒「ニッコリ笑って挨拶、大きな声でのおしゃべりをしないこと、足のお行儀がいいこと…」
・「恥ずかしいから挨拶しない」のではなく、大人から見たら「挨拶しないことこそ恥ずかしいこと」
・「私だけが挨拶して、一緒にいた友だちは先生に挨拶しなかった」という不本意なる体験談
・「強制」されず、自然な形で挨拶できる学校でありたいという願い
・一日に何度も会うのに、声を出して挨拶するのは・・・という戸惑い
・掃除の大移動の時には、「部活生の挨拶がほぼ合唱状態!」という事態に対する疑問
・上級生が変えていかないと変な挨拶が伝統になってしまうという危惧
そんな感想に対して、私もコメントしました。
何を「恥」と考えるか、大人の視点で見てみようということ。
部活の最上級生たちには、「今後、部としてどういう挨拶をしていくか」を冬休みの宿題とします、ということ。
「会釈」をしましょう。それが「礼儀正しさ」です、ということ。
そして、最後に1人の体験談を読みました。
私は毎朝、きちんと挨拶しています。自信を持って言えます。なぜなら、私は挨拶の効果を身をもって知った経験があるからです。中学生の頃、私は目に見えない何かに対して無意味な反抗をしていました。雰囲気だとか、親の言うことに対しても、クラスに対しても、反抗的に捉えるようになっていた時期がありました。当然、挨拶もしませんでした。挨拶をしないほうが、他との接触もなく、自分の世界に入れると思っていたからです。その時は、周りに対して反抗的な自分と、それを止めたがっている自分と、2人の自分がいるような状態でした。
でも、中学3年生に近づくにつれ、なんか突き抜けない、胸の辺りがもやもやするような気分になっていることに気づいたのです。その時、挨拶をしてみようという気になれたのです。自分の殻に閉じこもって、朝は元気がないからと言い訳する自分を変えたいと思っていたのかもしれません。
一旦挨拶をすると、胸のもやもや感は抜け、とても爽快な気分になって、嬉しくなりました。気づけば、周りとも何の支障もなく、むしろ肯定的に捉えることができるようになっていました。
それからというもの、毎朝校門に立つ先生方との挨拶で、私の一日が始まるという習慣が、自分の中に出来ていて、「よし、頑張ろう」と明るい気持ちで学校に通えるのです。挨拶をしないと、何か物足りない、一日の生活に張りが出ないような気がして、挨拶は大切なものだと身を持って知ることになったのです。

挨拶についての彼女の歴史を紹介しながら、
私は、これが中高一貫校のいいところなのだと思いました。
こうした歴史を語れる先輩が校内にいて、中学生を見守ってくれるのです。
先生方も6年間のスパンで、生徒たちの成長を見守ることができます。
一人一人いろんなもやもやがあって、それが出る時期や出方も違うでしょう。
一夜で挨拶が抜群に良くなり、全校生徒が一人残らず笑顔で挨拶できる、…なんて魔法じゃあるまいし、無理だと思っています。
でも、発達途上の生徒たちが、いろんな年齢や意見の人々の中にいられることは、一つの安心だと思います。
もちろん、努力をやめたらだめですよね。
それを分かっている生徒の皆さん、これからどう成長していくのでしょう。
2016年後半、挨拶についていろいろ考えたことが、全校の皆さんの記憶に残ったらうれしいです。
もう一つ、女性の生き方を考える弁論大会についてもお話しました。
西遠ならではの素晴らしい時間を、あの弁論大会は与えてくれています。
ソロプチミストの山本和子さまの詩を、壇上で朗読させていただきました。
「ソロプチミスト」のところを、先日の畑会長さんに倣って、「西遠の卒業生」に置き換え、もう一回朗読しました。
かけがえのない日々を私たちはこの学園で過ごしています。
そのことに感謝をしながら、2016年の授業納めの訓話を終えました。
生徒の皆さんの健やかなる年越しと新年の活躍を祈ります。