終戦記念日に

今年の8月15日は、台風7号が各地に大雨や竜巻などの被害を次々もたらし、「命を守る行動を」というアナウンサーの言葉がリピートされる一日となりました。終戦記念日に78年前の戦争を考える心の余裕もなかった方がたくさんいらっしゃったと思います。今も特別警報の中で不安に過ごしていらっしゃる方を想い、心からお見舞い申し上げます。

台風が近づく中、庭にバラが咲きました。蕾のふくらみに生命力と希望を感じます。

正午のサイレンと共に母と黙祷を捧げました。母は、いつも78年前の玉音放送直後の話をします。母は終戦時、小学3年生(国民学校3年生)でした。家族で豊岡村(現在の磐田市豊岡)に疎開していました。3つ上のお兄さんが「お父ちゃん、日本が戦争で負けただなんて嘘だよねー!」と泣きながら帰ってきたことを、何度も何度も話してくれます。母にとっての終戦の日の忘れ得ぬ光景なのです。お兄さんと対照的に、末っ子だった母は、これで防空頭巾を持たなくてもいい、電気の黒い幕を外していい、ということが嬉しくてならなかったそうです。母に「その時お父さんやお母さんはどうだったの?」と聞くと、「お父さんは、戦争が終わって安心していただろうけれど言葉にはしなかったねえ。お母さんは早く浜松に帰りたいと言ってた。苦労していたからねえ」と語ってくれました。

幼い頃から私は母のそういう話をずっと聞かされて育ってきましたが、こうして78年目の終戦記念日に改めて母に戦争体験を聞けることがこの上なく貴重な時間だと思っています。軍国少年だったお兄さんも今は鬼籍に入り、母の兄姉は一人もこの世にいません。話が聞けるということの大切さをひしひしと感じます。

昨年亡くなった父は、平成16年に「回想」と題した自伝を自費出版しました。父は終戦を山口県防府で迎えました。海軍兵学校78期だった父は、防府の兵学校で蔓延した赤痢にかかっており、戦争が終わったとはいえ、浜松に帰ることも困難を極めたことが、綴られています。

 8月23日から生徒たちの帰郷が始まったが、赤痢の患者は下痢が完全に止らなければ帰してもらえなかった。一日三~四回の下痢が続いていたが、「下痢はもう止りました」と偽りの申告をして、帰京の許可をもらった。(中略)防府を発ったのは、確か8月26日ごろだった。家を発つときに持ってきた革のトランクと兵学校で支給されたリュックサックを、両手に提げる力はなかった。三田尻の駅まで歩く体力もなく、炎天下を荷物と一緒に荷車で運んでもらった。
 駅では、復員用の無蓋貨車に乗り込む体力がなく、松代分隊監事が抱きかかえて乗せてくれた。「最後まで世話をかけるなあ」と言って抱きかかえられたとき、思わず涙が滲んだことを覚えている。(中略)広島で停車した時は夜中だった。焼野ヶ原となった街のあちこちで青白い焔が揺らいでいる光景は凄惨であった。(中略)名古屋のあたりで二度目の夜を迎えた。防府を出てから二十数時間、この間、兵学校で渡された乾パン四個か五個を噛っただけで、水も飲めずに無蓋貨車の片隅に座ったままだった。小便に立った記憶もない。何しろ無蓋貨車の柵板が乗り越えられないのだから…。  (「回想」より)

両親の78年前の夏を想う時、この二人が生き延びてくれたからこそ私がいるのだと改めて思います。そして、本当に「戦争を二度と起こしてはいけない」と強く思うのです。何より、子どもたちにつらい思いをさせてはいけない、と。

2018年11月、御殿場線の旅に出かけた両親が富士山を眺める姿をそうっと撮りました。

身近な家族が戦争を知っているという環境も残念ながらだんだん少なくなってきています。「未来に残す戦争の記憶」というweb特集をぜひ皆さんにも開いてもらえたらと思います。 先日、その特集の中から、「のっぽさん」こと高見のっぽさんの記事を読みました。《「小さい人」をだますな 優しいのっぽさんの静かな怒り》という記事です。 のっぽさんは「子ども」のことを敬意を込めて「小さな人」と呼んでいました。のっぽさん自身の戦争体験がその根底にあるのだと感じました。戦争を知らない世代が日本人のほとんどとなってしまった今、こうした記事を読み続けていくことも大事だと思います。

この校長ブログにも、「戦争」「平和」で検索してもらうと、たくさんの記事が出てきます。西遠生の「戦争」「平和」の記録をぜひお読みください。

実は、昨日から、このブログの「人気記事」の第3位に「中学生が思う『戦争』と『平和』」という2021年6月の記事が出ています。

どうしてこの記事が今読まれているのか、私にはわかりませんが、戦争に関してこれを読んで考えてくれる人が多いのであれば、とてもありがたいことだと思っています。そこに書かれている生徒の思いを、2年たった生徒たち自身が読んでどう思うのかも興味があります。あの頃はまだウクライナへのロシアの軍事侵攻も起きていませんでした。今、生徒たちはもっと切迫した思いで、「戦争」を見つめていることでしょう。

戦争体験を後世に残すという取り組みとして、西遠の公式サイトにも、「戦後70年 西遠の記憶」というコーナーがあります。西遠の卒業生やご家族15人の皆様の戦争体験が掲載されています。どうぞこちらもお読みください。

「花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう」( 「花は咲く」 作詞:岩井俊二 )