暴力は許されない

安倍元首相が銃撃され死亡するというショッキングなニュースが入ってきました。暴力で解決することなど何一つありません。いろいろな思想があり、宗教があり、文化があり、立場があり、…それを異にするからと言って暴力に訴えることは決して許されることではないのです。分断を煽るような言葉や、デマには、くれぐれも気を付けてください。冷静に行動しましょう。

明日は講堂朝会です。スクリーンを使ってお話しようと思い、その準備を進めています。心は千々に乱れますが、こういう時こそ、冷静に、熟考していかなくてはと言い聞かせています。

内田樹さんのブログに、こんな言葉があり、心に言い聞かせました。

どれほど妥協の余地のない政治的対立であっても、その理非を決するのは「自由な言論」の審級であるべきで、それ以外の手段を私は受け容れない。そのことをもう一度繰り返しておきたい。

 けれども、この数年、日本社会で政治を語る言葉は年を追って「自由な」というよりは「節度を失った」ものになってきていた。そのことはみんな感じていたと思う。

 それでも、「暴力的な言葉」はただの「言葉」に過ぎない、言葉が人を深く傷つけることはない。そう信じていた人も多いと思う。でも、それは違う。

 罵倒や嘘やプロパガンダが言論の場を領するようになると、「聞き届けられるべき言葉」と「消え去るべき言葉」を判定する力が言論の場にはあるという確信を人々は失い始める。自由な言論の場の審判力に対する信頼が失われた時に、物理的暴力の持つ現実変成力への期待が膨張する。言論への信認が失われる時に、物理的な力だけが決定力を持つという忌むべき思想が人々の心に入り込む。このふたつはゼロサムの関係にある。

 政治的暴力を抑止するために必要なのは、警察や軍隊の強化ではない。十分な信頼に足るだけ、論理的で、感情豊かで、かつ節度ある自由な言論をもう一度作り直すことだ。その作業なら今すぐここから始めることができる。

  内田樹の研究室より「安倍元首相銃撃の報に接して」(2022年7月8日本文から抜粋

今すべきは暴力ではありません。「十分な信頼に足るだけ、論理的で、感情豊かで、かつ節度ある自由な言論をもう一度作り直すこと」を私は心掛けたい。